~現在(1)~
~現在(1)~
実家を飛び出したのに、戻ってきてしまった。
3年間という月日は荷物をただ増やしただけかもしれない。それも結構な量を。しかもそれは物理的だけとも限らない。いや、物理的じゃないものの方が多い気がする。
この3年間一度も実家には戻らなかった。そんなに遠いというわけではない。いや、近いと言うわけでもない。ただ、帰りたくなかった。帰れなかったが正解かもしれない。
物理的には電車は乗り継がないといけないけれど2時間もあれば帰ることができる。この3年の間にお母さんもお姉ちゃんも何度か遊びに来てくれた。お父さんは一度も来なかった。
「みさき、こんな狭いところに住んでいるの?」
お母さんがはじめてきた時にそう言われたのだ。狭いのは事実だ。それは住んでいる私が一番わかっている。
1Rと言われるマドリ。しかも狭い。
ベッドがあり、テーブルを出すと誰も動けなくなる。そのため、食事するとき以外はテーブルを出さないようにしていた。
「まあ、住んでみると意外となんとかなるものよ、お母さん」
と言ったものの狭いことは重々承知している。誰が見ても同じ感想をいうはずだ。
高卒で働ける会社も限られている。当たり前だけれど正社員になんてなれなかった。ただ、運よく小さいけれど不動産の事務所で契約社員としてだけれど事務員として働けたのだ。あんな状況でもだ。
そう、ちょうど家を飛び出て住むところを探していた私は住むところと一緒に働く所も見つけることができたのだ。運が良かった。
見た目が怖そうな社長さんもセクハラ発言や行動は多かったけれど優しかったし、営業の人もやさしかった。みんな定期的にご飯に誘ってくれたから食べることには困らなかった。
それをお母さんとお姉ちゃんに言ったら「みさき狙われているよ。気をつけな」と言われた。
大丈夫。何かあったら「公世」が助けてくれたから。
実際何度も公世に助けてもらった。それはお母さんにもお姉ちゃんにもちゃんと言えてない。いや、絶対に言えない感じの出来事もあったりする。ホテルに連れ込まれて相手がシャワーを浴びている時に公世と逃げたこともあった。あれは危なかった。
けれど、今となってはもう、どうでもいいことだ。
あの時の部屋は狭いからお母さんもお姉ちゃんも泊まっていくことはなかった。
「お父さん何か言っている?」
「うん、何も言わないけれどね。そわそわしているの。私とかお姉ちゃんがみさきのところに行くと言うとね」
「想像つく。お父さんってそういう所あるよね」
なんて話しをしていた。一人暮らしをする時に反対をしなかったのもお父さんだった。
「まあ、若いんだから色んなことを見てくればいい。何かあったら戻ってくればいいんだからな」
不思議と新聞を反対に向けて読みながらそう言ったらしい。お姉ちゃんがそう教えてくれた。面白いお父さんなのだ。いつもあの人は精一杯「良い」お父さんを演じようとして失敗をする。どこか残念なんだ。
そんな色んなことがあった一人暮らしだったけれど、私は実家に帰ることにしたのだ。そう、本当に色んなことがありすぎたのだ。
唐突に「私実家に帰るから」と言ったのにお母さんもお姉ちゃんもすんなり受け入れてくれた。まあ、それもそうか。あんなことがあったのだから。
実家に帰ると私の部屋は3年間いなかったにも関わらず何も変わっていなかった。時が止まった部屋だ。服とかも当時のまま残っている。そう、私はほとんど家出状態に近い感じで飛び出たのだ。
あの時と部屋は変わっていない。
ただ、違うのは床に段ボールが散乱しているくらい。そう、3年間の一人暮らしでたまった物たちだ。物はなぜか思い出をいっぱい連れてきてくれる。時が止まっていたこの部屋にもなだれ込んでくるのだ。
でも、思い出は語る相手がいなければただの物以下なのかもしれない。いや、私の中には確かに残っているのだ。私の中にだけ。
「早く荷物片付けてよね。ご飯食べに行くまでに済ませるのよ」
「は~い」
感傷に浸る時間すらありゃしない。お母さんは変わらないな。
私は段ボールのガムテープをはがしていく。荷造りをしたのも私だ。だから何が入っているのかなんてわかっている。
持ってきたいもの以外は捨ててきた。そう思っていたはずだ。けれど、風月堂の缶に色んな物を詰め込んだ。それを最初に取り出してしまった。開けることはできない。ここには色んなものが詰まりすぎている。いや、物じゃない。思いだ。想いかもしれない。重いだけかもしれない。そう言っても何もかわらない。
クローゼットの奥に風月堂の缶をしまう。カツンと音がした。ああ、そうか。ここにも私は思い出を残していったんだ。
そう、クローゼットの奥には3年前に私がここに残した『思い出』が先にいたことを思い出した。私はその古くなった風月堂の缶の上にもう一つ缶を重ねた。
開けることなんてもうない。でも捨てることもできない。私はその缶に「ただいま」と伝えた。できれば忘れていたい思い出だ。だからここにしまってなかったことにしたかったのだ。
段ボールを片付けて、ゴミをまとめる。何も考えずにこうしていると少しだけ楽になれるのかもと思ってしまった。
こうやってまとめてしまって、「ぽい」っと捨てられたら楽になれるのに。そう思いながら私はクローゼットの奥にため込んでしまう。
携帯を見る。電話帳ですぐに探してしまう。画面に「大木戸公世」と表示される。通話ボタンを押す勇気もなければ、削除する勇気もない。
メールの受信Boxには「公世」というフォルダーもあるが、これまた開く勇気もなければ削除する勇気もない。そう、私はどこにも行けないまま今にいるのだ。居場所なんてはじめからないのだ。
「準備できた?」
「は~い、今行くから待って」
お母さんに呼ばれて、クローゼットからワンピースを取り出した。3年前に着ていた服で今着てもおかしくないものを選んだつもりだ。
白を基調とした水玉のワンピース。白いカーデガン。ちゃんと両手も手首まで隠れている。これで十分だ。そういえば、このワンピースはあの時に買ったものだ。懐かしい。
「まだ?」
「今降りる」
感傷に浸っている時間はもらえないみたい。私は階段を降りた。すでに1階のリビングにはお母さんとお姉ちゃんが居た。
「みさき、そのかっこで行くの?」
「変かな?」
「変じゃないけれど、それって高校の時に買ったやつでしょう。もっといいのあるでしょうに」
「でも、行くの近くの中華料理の百楽だよ。別にいいよ」
そう、それに誰かと会うわけでもない。会いたい人だってここにはいないのだから別にどうでもいい。なんだっていいのだ。
「まあ、いいわ。じゃあ、行こうっか」
「あれ?お父さんは?」
「先に行って場所取っているんだって。予約すればいいのに」
「あの店そんな混んでないでしょう」
そう言いながらお母さんが運転する車に乗り込む。私は後部座席。うちではお母さんだけがお酒を飲まないからいつも運転はお母さんがすることになる。
10分ほどで店に着く。郊外にある中華料理屋。店に入るとすでにお父さんがビールを飲んでいた。
「おお、遅かったな」
「何、もう飲んでるの?」
「ちょっとだけだ。後料理はみんなが来たら持ってくるように頼んであるからな」
なんだか得意そうにお父さんが言う。
「おい、飲むだろう」
「じゃあ、ちょっとだけ」
本当は結構お酒は飲める。けれど、あんまり飲むとお母さんの機嫌が悪くなるから家族と飲むときは少な目だ。
「みさきも飲めるようになったものね」
「まあね」
実際20歳になる前からお酒は飲んでいた。公世もそうだった。
乾杯をして、しばらくしたら料理がじゃんじゃん出てきた。
「お父さんどれだけ頼んだの?」
「多分テーブルに乗るくらいギリギリくらいだろうな」
そう言って豪快に笑っている。お父さんらしい。豪快を演じているが多分来る前にお皿の大きさとかも考えて頼んでいたはずだ。しかも先に来るのはそれを店員に聞いているのを知られないようにしているからなのだ。まあ、そういう行動を取るのがうちのお父さんなのだ。そのお父さんが言う。
「それで、みさきはこれからどうするんだ」
「しばらくゆっくりしようかなって」
「そうだな、あんなことがあった後だしな」
がちゃん。
音がした。お母さんが手に持っていた取り皿を落とした音だ。
「お父さん、それは」
「触れないといかんだろう」
そう、誰も家族で『あの事』には触れてこなかった。お母さんもお姉ちゃんも。空気を読まないふりをしてお父さんは触れてきたのだ。でも、聞くなら、触れてくるならお父さんだとも思っていた。
「いいよ。気にしてないから。でもちょっとゆっくりしたいの」
私はそう言った。嘘だ。
「なら、いいけれど」
「それにしばらくは貯金だってあるから」
「お金のことなんて気にしなくていいのよ。子供なんだから」
お母さんにとって私はいつまでたっても子供なのだ。いや、子供なのには違いはない。多分だけれど。いくつになってもそれは変わらないのだろう。
「ありがとう」
私はそう言った。けれど、気にしていないなんてことはない。忘れることだってあり得ない。
ただ、気にしているなんて言ったらみんなが笑えないだけだからだ。だから私は気にしないふりをする。
そう、お父さんがお父さんを頑張って演じているように、私も理解ある「娘」を演じないといけないのだ。
家に帰るとお姉ちゃんが部屋にやってきた。
「片付いているね」
「そりゃ、頑張ったもの」
部屋の模様替えも行った。あの時のままの部屋に居続けるのはつらいだけだ。嫌でも色んなことを思い出してしまう。まあ、うまく行ったのかと言われると頷けない自信だけはあるけど。
「そうえいば、お姉ちゃんはどこで働いているの?」
「前に言ったじゃない。駅前の旅行代理店」
「そうだっけ?それにそんなの駅前にあった?」
「あるよ。狭いけれどね。あるのよ。だから私もお母さんもみさきの所に行くとき特急券安く手に入れられたのよ」
「え?そうなの。言ってくれたら私戻ってくる時お姉ちゃんにお願いしたのに」
「言ったよ」
「まあ、いいけれどね。もう行く用事もない所だしさ」
「それで、みさきがいいならいいけれど」
そう言ってお姉ちゃんがはっとした顔をした。
「どうしたの?」
「なんでもない。ごめんね」
なんか気を使ってくれているのがわかる。そんなに私は弱くないよ。いや、強くもないけれど。お姉ちゃんが言う。
「そうそう、明日からあんた昼間一人だけれど大丈夫?」
「大丈夫だよ、今まで一人で暮らしてきてたんだよ」
「まあ、それならいいけれどね。じゃあ、明日私朝早いから」
そう言ってお姉ちゃんは部屋を出て行った。
一人になるとなんだかこの狭い、懐かしい自分の部屋だった場所が、どうしてか今の私がいる場所でいいのか不安になった。
ああ、戻ってきたんだな。そう思った。私は天井を見つめた。シミがまるで顔に見える。そういえば、子供の時あのシミが怖くて泣いたのを思い出した。
私はそんなに弱かったのかな。いつからだろう。眠れそうにはなかったけれどベッドにもぐりこんだ。そうだ。お酒を飲んだから薬を飲んでいないんだ。目を閉じて何も考えないように、闇に溶け込めるようにずっと頑張っていた。でも、闇には溶け込めないし、真っ暗にもなれなかった。