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皇女の猫【抑制版】  作者: WAKA
アヤメ篇
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南国の風

 熱帯気候性地域であるビレは乾季と雨季の二つの季節がある。今は湿度の高い雨季で、過ごし易い環境とは言えない。むっとする空気が肌にまとわりつき、吹く風の中にも涼気は感じられない。


 船を下りれば、そこは活気のある港町だった。観光客や商人達の活気で溢れているが、油断ならない各国の軍人や得体の知れない流れ者も多い。脱走した身であるから、人が多い場所は避けておいた方が賢明だ。


 私達は港町から少し離れた町へ向かうことにした。


「あっづーい」


 後ろを歩くルリがぐったりとしながら何度目かの文句を言う。

 文句を言う間にも、あっちへフラフラこっちへフラフラと足元がおぼつかない。暑さと疲労で頭も腕もがっくりと下がっている。


「暑いよー、焼けてしまうよー、溶けてしまうー」

「そう思うと余計に暑くなる」

「すずしーって言っても涼しくなるわけじゃないよー。暑いもんは暑いもん」


 これまでずっと、特に貿易船の中ではことさらに纏わりついてきたが、今はその元気もないようだ。


「耐えろ、私も暑い。ここはもともとこういう気候なんだ。文句を言っても変わるわけじゃないだろう?」

「ぶー・・・・・・あっ!」


 頬を膨らませていたルリは閃いたとばかりに手を叩いて、とことこと駆け寄ってきた。


「ねえアヤメちゃん! 海行こう海! ね?」

「海?」

「うん! きっと気持ちいよ。気分転換に行こうよ」


 ムシムシした空気のせいで思いのほか汗をかき、水気を帯びた衣服はずっしりと重かった。確かに水浴びをすれば気分も晴れる。


「そうしたいが、ダメだ」

「ええー! どうして!?」


 ルリはこの世の終わりのように叫ぶ。


「今は陽の光が厳しいが、昼を過ぎれば大雨になる。そうなれば海も荒れる」

「うそ、こんなにいい天気なのに?」

「雨季とはそういうものだ。午後にはバケツをひっくり返したような雨になると聞いたことがある。ひとまず宿を見つけるのが先決だろう」

「そんなぁ・・・・・・せっかく南国に来たのに海に行けないなんて」

「海ならもう何回も行っただろう?」


 冷たく言うと捨てられた猫みたいに寂しそうな目を向けてくる。

 そんな姿を見ると、とても悪いことをした気分になる。


「戦争のときはね――そういうのじゃなくってさ、砂浜でアヤメちゃんとのんびりしたいの」


 期待に胸を膨らませていた彼女は、本当に悲しそうに、がっくりとうなだれている。先刻まで輝いていた顔も、再びどんよりとしたものに戻ってしまった。


 なんとも手のかかる相棒だ、とため息を吐く。


 だが、この相棒なしでは桜花軍基地から脱出できなかったし、ここまで逃れるのも難しかっただろう。私に協力し、目的のために命を懸けてくれたのだ。恩人である彼女の希望は可能な限り叶えるべきであると思う。


「ルリ、ひと段落したら海に行こう」


 そう言うと、身を投げるようにして私の腕を掴み、顔を覗きこんできた。小さな唇が何か言わんと震えているが、どう切り出すべきか悩んでいるといったふうだ。


 普段は遠慮のないことを言うのに、大事な約束をしたい時のルリはこんなふうにしおらしくなってしまう。時が経ってもこのクセは治らないのではないだろうか。大人になった彼女が同じことをする光景を想像し、つい笑みが漏れる。


「そんな顔をするな、本当だ。よければ明日にでも行ってみよう」

「嘘つかない?」


 ぐっと顔が迫る。


 ルリとの口づけが一瞬、脳裏に浮かんで、鼻先に迫った唇に圧倒されてしまう。


「嘘は言わないさ。だ、だからあまり顔を近づけるな、息がかかってくすぐったいだろう」

「だって目を見ないとわからない。アヤメちゃんて真顔で嘘つくときあるから」

「失礼な奴だな、私はそんなことしないぞ?」

「約束だからね。楽しみにしてるから」

「わ、わかったわかった」


 口早に言うと、ルリはパッと手を放して嬉しそうに頬を染めた。再び上機嫌になったのか、鼻歌など口ずさんでいる。気づけばフラフラだったはずの足取りが堅固なものに変わっていた。


「暑いのはもういいのか?」

「んふふー、アヤメちゃんと海に行けるなら我慢する」


 げんきんな娘であった。良くも悪くも、素直で真直ぐな娘であると思う。


「水浴びか」


 山の泉で、クリステル様と水浴びをしたことを思い出す。

あの時、クリステル様は私に触れてくれて、美しいと言ってくれて、口づけをしてくれた。あのお方の声がもう一度聞きたい、肌に触れていたい。渇望は止むことがなかった。


「クリステル様、あなたは私が必ず」


 西の空に雨雲が広がっていた。大気を侵略していく雲の隙間に切れ間があり、そこから夏の光が差し込んでいる。そうして空を見上げた時、私は激しく咳き込んだ。

 

 何か胸の奥に閊えていて、吐き出そうとしても出てこない。


 前を歩いていたルリが異変に気づいて振り返る。なんでもないと言おうとしたが、言葉が出てこない。


「どうしたの!? 大丈夫!?」


 駆け寄ったルリが私の背中をさすってくれる。

 しかし、咳は止まるどころか激しさを増していく。度重なる咳でのどの粘膜が傷つけられていき、ついには嗚咽が混じり始めた。

 そうして私は黒い液体を吐いた。

 すると、体の力まで吐き出してしまったようで、膝がカクンと折れてしまった。


「副作用だ、アヤメちゃんしっかり!」


 私はルリに抱えられて歩いた。


「町までもうすぐのはずだから! もうちょっと頑張って!」


「すまない・・・・・・安心しろ、海には行くから」

「バカ! そんなこと言ってる場合じゃない!」


 黒い液体は薬物の副作用らしい。わかったところで朦朧とする意識のままでは何もできない。


 ざまあないな、と思う。

 己の体を過信し過ぎていたようだ。

 牢に繋がれて数日に及ぶ折檻を受け、不眠不休で薬を投与され、一息入れて今度は国外へ逃亡。精神と肉体は限界まで追い詰められていたらしい。


 ビレの港町から一里ほど歩くとマーラと呼ばれる町がある。ルリは私を抱えたまま半里も歩き、マーラへたどり着いた。


 ビレはキャバリア国の植民地である。キャバリアの文明は先進国のそれであるため、当然のように傘下に入った国には教育と開拓が進められる。港町はそれなりに発展していたが、このマーラという町は発展途上であるらしい。

 道路の舗装も十分ではなく、一部の建物は未だ古い木造建築の建造物が目立つ。ルリは私を気遣ってか、一番清潔そうなホテルを選んでくれた。


 部屋に入る頃には随分と体調も良くなった。椅子に座らせてくれたルリを見て、感謝の念が湧いてくる。この娘がいなければ、私は行き倒れていただろう。


「ありがとう。本当に助かっ――」

「服を脱いで」


服を脱ぐ様に指示される。


「は?」

「服だよアヤメちゃん」

「どうして」

「しばらく寝てた方がいいよ。でもその前に体拭いてあげる、汗びっしょりで気持ち悪いでしょ?」


 理由を聞くと、湯を使って体を拭くためだと言う。


「そう、か。でもそれくらい自分でやれるから」


 言って立ち上がった瞬間、再び目眩がして世界が傾いた。

 床に倒れかけた私を抱き留め、再び椅子に座らせるとルリは頬を膨らませた。


「ほらね、あたしが拭いてあげるって言うんだから病人は大人しくしてればいいの」

「ま、待てルリ。自分でやらせてくれ。後生だ」

「そんな恥ずかしがることないじゃん、一緒にお風呂だって入ったことあるし」

「それはそうだが、その――なんだか部屋で肌を見せるというのは、どうにも」

「いやだ、今まで離ればなれでこういうことしてあげられなかったから。だから、いっぱい懐いて・・・じゃなくて、力になりたいの」

「何か漏れなかったか?」

「なーんにも。それじゃちょっと待っててね」


 こちらなどお構いなしに腕まくりして湯を沸かし始めた。

 私が戦場へ出立する日、ルリはみゅううと子猫のように鳴いて港までついてきた。呆れた奴だと皆に笑われていたが、今度は私がみゅううと鳴く羽目になった。


 タオルで肌を拭うと同時に、ルリは自分の顔を私の胸や首筋に押し付けてきた。まるで猫が甘えるように肌を摺り寄せてくる。さらさらした白髪が肌に触れてくすぐったい。


「ねえ、実はくすぐったがりでしょ? でも触られるの気持ちよかったりして。どう?」

「そんなことあるものか。ふざけるのなら自分でやる」

「あん、アヤメちゃんのいけず」


 ルリは人差し指で私の鎖骨をなぞった。


「ひうっ!」


 さんざん体を撫でまわされたのだから、バレないわけがなかった。拷問などで激しく打たれるのには耐えられるが、優しく撫でられると意思とは無関係に体が跳ね上がってしまう。


「脇腹とか耳も弱いよね。あ! お尻とかも弱そう」

「・・・・・・」


 人の弱みを見つけ、嘲笑いながらはしゃぐとはいい度胸だ。

げんこつをくれてやりたいが、体の動かない私は彼女の手の上だ。歯痒くてウゴウゴしていると、ルリが笑った。


「あは、怒った? むくれるアヤメちゃん可愛いー」

「体のあちこちをくすぐられて、良い気分なわけがないだろう」

「そっか・・・・・・ね、大好きな人とこういうことしたい?」


 ルリが言った。


「どういう意味だ?」


 私は彼女のおでこを掴んで離しながら言う。


「だーかーらー。こうやって肌と肌を重ねたいかってこと」

「そ、そんなこと」

「したくないの?」


 上目遣いに私を見る。


「あたしは、アヤメちゃんとしたいな」


 唇の端をぺろっと舐めて、私の首筋に口づけをする。

首筋に濡れた唇の感触。ひんやりとした彼女の舌が私の静脈を這うと、ぴちゅっという湿った音が聞こえた。


「んっ、くぅ。こら、こういうことはするなと言ったはずだ」

「あたしはアヤメちゃんになら、何をされてもいい。するのもいいけどね」


 にっこりと微笑んで私の頬を両手で包む。

 動けなかった。

 顔は笑っているが、先刻までのはしゃいでいた姿はない。空気が張りつめて、何の音も聞こえなくなる。無音の部屋で、しばし私達は見つめ合った。


 また接吻をされるのではと身構えたが、ルリは頬ずりを一つしただけだった。顔を押し付けてくるから、せっかくのふわふわな髪がすぐに乱れてしまう。


「ずっと一緒にいてくれなきゃイヤ」


 みゅぅ、と縋るような吐息が聞こえる。

 顔が離れていく瞬間、鼻をすする音が聞こえた。


「お前、泣いているのか」


 俯いたルリは答えない。


「私と離れて、そんなに寂しかったか」


 私は手ぐしでルリの髪を梳きながら言った。

 ルリは無言でこくこくと首を動かした。


「すまなかったな」


 耳元で囁かれた言葉は脳髄に焼き付き、いつまでも残っていた。

 ルリは私の体を綺麗に拭き終えると、寝心地の良いベットに運んでくれた。


「のど渇いたでしょ? 水買ってくるから、しばらく寝てて。安静にしてなくちゃダメだからね」


 そう言って部屋を出て行った。


 ルリがいなくなると、私はため息をついた。それが解放された安堵なのか、一人ぼっちにされた寂しさなのかよくわからない。

 右手の甲を額に当てて、目を閉じる。こうすれば昼間でも暗闇を作ることができる。


 桜花国で私の呪いを恐れないのは師匠とルリだけ。特にルリは大切な――妹のような存在だ。

 私を慕ってくれる。それは嬉しいことなのだが、彼女が私に望むものと、私が彼女に望むものは違う。ルリが本当に望むものを私はあげられない。


 それをはっきりと口に出さないところが、私の卑怯なところなのだと思う。


 自身を責めながら、眠りについた。


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