満天
夜半時、クリステルは目を覚ました。暗い室内で聞こえるのは、隣で寝ているアヤメの静かな吐息。そっと彼女の髪を撫で、ベッドを出る。
とても眠れない。意識が落ちかけたと思えば、すぐに頭が冴えて起きてしまう。不規則な鼓動も止むことがなかった。
一人、風に当たりたくなった。
電気をつければアヤメを起こしてしまうかもしれない。机に置かれているマッチを擦り、ランプに灯りを灯す。指先に灯った淡い光が、闇をかすめ取っていった。
物音を立てずに扉を開け、長い廊下を進む。不思議と鼓動は落ち着いてきた。冷めた夜気が、クリステルの心を沈めていく。暗く冷たい廊下を驚くほど冷静な気持ちで歩いていく。
いくつかの扉を開け、門をくぐり、気が付けば城内の庭園に来ていた。
そこには見渡す限り白い花で埋め尽くされた平原があった。花畑はどこまでも伸びていて、城内であることを錯覚してしまうほどだった。
アーバン国城内でのみ咲く白い花は王家の紋章にも使われている、とフィオが言っていたのを思い出す。
小指ほどの小さな蕾にはぼんやりと灯りが灯っていた。土と水が何かを含んでいて、光を放つ花が咲くらしい。
クリステルはふっとランプの灯を消した。まるで地上で星が瞬いているように、無数の白い光が夜の庭を照らしている。幻想的な風景を見つめつつ、芝生の上に腰を下ろした。
――まるで魔法みたい。魔法でピアも生き返ったらいいのに。
思わず考えたことがあまりに愚かで自分が情けなくなる。ひざを抱え、頭を押し付ける。
「ピア」
悪い考えが頭をよぎる。
ヴェルガを取り戻すなど愚かな望みであったのか。愚かな主に従ったばかりにピアは。ピアだけではない、村で暮らしていた姉妹のリラとユーリアさえも巻き込んでしまった。生きて未来を創るべき少女たちが無残に命を奪われてしまった。
ヴェルガを取り戻さなければならない、しかしこれ以上の犠牲は出したくない。やるべきこと、耐えなければならないこと、それらが一度にのしかかり途方に暮れる。
「私がいなければ」
口に出してみると、頭の中で点々としていた事柄全てが簡単に繋がる。
ヴェルガの皇女である自分がいなければ、あのような悲劇は起こりえなかった。
「う、うぅ」
涙が流れ落ちる。そんな自分が酷く腹立たしかった。
「涙なんて流す資格ない、全て私のせいだもの」
自らを縛り付けるように、きつく体を抱く。
「眠れませんか」
背後から聞こえた声にはっとする。
振り返るとアヤメが立っていた。
・・・・・・・・・・
クリステル様と目が合う。とても驚いていた。
「綺麗な花ですね」
私は微笑む。少しでも心を休めてもらいたいという思いからだ。
クリステル様は何も言わず、膝を抱いてふさぎ込んでしまう。小さな拳を力いっぱい握って、暗い感情と向き合っている。
「私わかっていたの、このまま進めば犠牲は必ず出るって。だから、そうならなくて済む方法をいつも考えていた」
歩いて、横に立つ。クリステル様はまだ顔を上げてくれない。
「でも違う、本当は逃げていたの・・・・・・これまで、ここに来るまで敵も味方も犠牲は出ている。私を護るため、私を殺すため、人が死んだわ。なのに私は、一度だって手を下していない。恐いことや危ないことは全部アヤメさん達に任せて、逃げていただけ。卑怯者、なの」
「クリステル様」
私の言葉にクリステル様は返事をせず、俯いて黙り込んでしまった。
やがて、静かに泣き始めた。
声を押し殺し、息をするようにしっとりと。自分を押さえつけて泣く彼女の姿が痛々しかった。
「口では綺麗ごとを言って、甘い言葉で皆をそそのかして、殺し合いをさせて、それでヴェルガを元に戻そうだなんて。酷いよ、酷すぎるよね。なんて身勝手で、悪い皇女なんだろう」
肩を揺らし、涙で滲んだ声で言った。
「最低だ、私。ピアに会いたい、もう一度だけ会えたら――」
「会えたら、どうするのですか?」
「謝りたい、愚かな私を許してって」
「ピアは、何というでしょうか」
「わからない、許すと言ってくれるかもしれないし、許さないと言うかも、もうわからないの、だってあの子は死んでっ、しまった、から」
「・・・・・・そう、ピアは死んだ。もう何もわかりません。クリステル様の言ったことは、あなた自身がピアに求める声だ。ピアのものではない」
はっとしたクリステル様が顔を上げる。
彼女の見開いた目に私が映っていた。それを見て初めて、自分が泣いていたことに気づいた。
指先で拭ったが、溢れる涙は止まらなかった。それならばこのままでもかまわない。
「人間は納得できないことが起こると、自分のせいだと思うことで落ち着こうとする。そうして自暴自棄になり、生きる活力を失ってしまう。浅ましい救いを求め、自らを傷つけたり、或いは死に焦がれたりもする・・・・・・かつて私も。私は嫌われ者です、死神と呼ばれている、望まずとも人を死に追いやる」
意識せずとも、呼吸が速くなってしまう。とても言葉を続けられなかったから、ため息をついて夜空を見上げた。冷たい夜気に晒されて、体中が冷たいはずなのに、何も感じることができない。
大切な仲間を失ったことで、胸の中にあった温かみも消えてしまった。今、胸の中には重くて冷たい冷気が流れている。だから、体の寒さなど感じないのだ。
これまで何度もこうした感情は襲ってきた。今度ばかりはと決めていたのに。私を慕ってくれた皆を護ろうと決めたはずなのに。
悔しい、それよりも、なによりも――寂しい。
「――そう、これまでの死もみんな、リラとユーリアもピアも全て私のせいで」
「違うわ! そんなことっ!」
クリステル様はこれまでにないくらい声を張り上げた。
「あ、ごめんなさい。つい大きな声を」
「・・・・・・生き残るべき者達こそ命を落とす、そのような不条理で世は廻っているのかもしれません。死んでいった仲間たちの名は今でも忘れない、一人一人言うことができるし、顔だってすぐに浮かびます。残された人間は、背負わなければならない。散っていった命と、救うべき命を全て。生きることを選ぶのなら、どんな生き方であれ修羅の道となるでしょう」
「アヤメさん」
「今こそが鍔際です、過酷な時であればこそ決めなければなりません」
彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「あなたを希望とし、生きることを選んだ者達や救われた者達がいることも忘れてはいけない」
手を差し出すと、クリステル様は戸惑いながらもそっと握ってきた。
白くて小さい手。希望はここから生まれる。
「生きるのです、クリステル様。ここで、この世界で。抗うにしても滅びるにしても、私はあなたの傍を離れない」
クリステル様はそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。
「アヤメさん、私――」
ほろ苦い眼差し。
私もクリステル様の頬に触れた。
そうして互いの傷をなぞる。
胸の中にある消えかけた火が、少しずつ、少しずつ、大きくなっていくのを感じる。
涙を流すクリステル様の唇が、きゅっと小さく萎んだ。私はそっと彼女の髪を撫でた。
「私は生きなくちゃ。でも、苦しいの」
さあっと風が吹き渡り、先ほどまでの余韻が過ぎ去っていく。
静寂の中で。まるで世界には私たち二人しかいないような静かな夜の中で、そっと抱きしめ合った。
「クリステル様」
言葉はもう尽きた。こうして抱きしめ合う以外にない。
柔らかく、温かい。この小さな肩をした美しい少女を護り抜きたかった。
その時、ふわりと光が舞った。
白い花の蕾から光が浮かび上がり、風に乗って夜空へ舞い上がっていく。光はゆっくりと空に向かっていく。満天の星空へと還っていくようだった。




