古い友人
アーバン国の王宮に招かれて三日目、クリステルはベッドの上で目を覚ました。
「あ、起きたね」
頭だけ動かしてみると、椅子に腰かけていたルリが満面の笑みを浮かべていた。
「ルリさん」
「おはようクリステルさん。体調はどう?」
「まだ頭がぼうっとします」
「無理しないでね」
「――ルリさん。無事だったのですね、よかった」
クリステルはルリの髪を撫でようと手を伸ばした。ルリはじゃれつく猫のように頭を突き出して甘えた後、そっと抱き着いた。
「アヤメちゃんもちゃんと隣のベッドに寝てるからね」
首を動かして反対を見ると、アヤメが規則正しい呼吸で眠っていた。それを見たクリステルは胸を撫で下ろす。
と、クリステルの胸に頭をのせているルリがむーと呻る。
「酷いなぁ、あたしもいるのに」
「ごっ、ごめんなさい」
「――っぷ、あはは。うそうそ」
むくれていたルリが堪えきれずに笑いだす。
「二人の仲は知ってるから、あたしはそんな二人が大好きだから・・・・・・約束果たしに戻ったよ、お姉ちゃんたちはあたしが護るからね」
「怪我はしていませんか? 痛いところは?」
「平気平気、クリステルさんは自分の心配しなよ。三日も寝てたんだよ」
「三日もですか、寝てばかりの皇女ですね」
クリステルがルリの頭を撫でる。それが嬉しかったのか、ルリはクリステルの頬に口づけをする。
「っちゅ、んふ。クリステルさんの味がする」
「ル、ルリさん」
「あは、可愛いんだ」
微笑んでいたルリは表情を消し、息を熱くして小さな唇に口付けようとしたが、
「おっと、やばやば。クリステルさん可愛いからついね。今は止めとこ、バレたらアヤメちゃんに殺される」
「――さすがに殺されはしないかと」
「いや、アヤメちゃんならやるよ。かなり独占欲強い方だと思うし」
否定しようとしたクリステルであったが、かつてソニアに対して激しい嫉妬の念を燃やしていたアヤメを思い出して口をつぐんだ。
――そういえば、ソニアは。ピアは?
「ルリさん、私の仲間たちは」
「いろいろ積もる話があるんだけど、クリステルさんが起きたら教えてって言われてるんだ。ちょっと部屋の外にいる守衛に伝えてくる」
「あの、私大丈夫です。お医者様にかかるほどでは――」
「違うの、この国の王女様が会いたいんだって。友達なんでしょ?」
ルリはパッとクリステルから離れてドアへ向かう。
「王女――フィオちゃん」
そう言った途端、ドアがノックされる。
ドアノブに手をかけようとしていたルリは退いて半眼の瞳を余計に細める。「もう来たよ、早すぎでしょ」と漏らし、顔をツーンと逸らして元いた椅子に腰かけた。
『フィオです、入ってもいいですか』
懐かしい声にクリステルは頬を緩める。
「どうぞ」
そう答えると、一人の少女がドアを開けて入ってきた。
鮮やかな亜麻色の髪に、雪が染み込んだような白い肌、アーバン人特有の赤橙の瞳。アーバン国王女、フィオ・セフィラム・グレイスハートはクリステルに匹敵するほどの美貌を宿している。
クリステルとフィオが向かい合えば、周囲の人間には神聖な光景とさえ映る。神が愛を注いで創造した美女二人。完璧なまでに美しい姫君の邂逅であった。
クリステルは礼を尽くすためにベッドから降りた。
「クリスちゃ――クリステル皇女殿下、無理しないでください」
「いいえ、拝芝の栄を得たこと嬉しく思います。これまでのご厚意、なんと感謝したらよいか」
「大切な友人のためですから。もし体調が良いのなら、隣の部屋でお話しませんか?」
「はい、喜んで」
「そ、そう? よかった」
手を合わせて破顔したフィオ。それを見てフィオの警護を務める女性が肘でつつく。
「王女」
「いたっ」
「クリステル皇女の前ですよ、だらしない顔を引き締めてください」
「だらしな!? 失礼だよ。いいじゃない別に」
「よくはありません、ほら言葉遣い」
「はいはい、わかりましたよ」
「『はい』は一回」
落ち着いた口調で優雅に振舞うクリステルと違い、フィオはやや頬を赤らめてどことなく狼狽している。口調も敬語やら謙譲語やら入り混じっていた。
窘めたのは軍服を纏う背の高い女性。薄紫の長い髪を背に負い、しなやかに伸びた手足。気高さを具現化したような凛とした佇まいであった。この女性も清らかに光り輝くような美貌であり、フィオとクリステルとはまた違った光を宿している。
まあうちのアヤメちゃんが一番かわいいけどね、とルリが手を組んで頷いていると、
「ルリさん、私は友人と話をしてきます」
「うん、いってらっしゃい。あたしはアヤメちゃん見てる」
「よろしくお願いしますね」
「無理しちゃだめだからね、なにかあったら呼んで」
「はい、行ってきます」
クリステルが微笑む。
「そうだ、これ持ってて」
「これは?」
ルリが手渡したのはガラス玉ほどの豆粒だった。
「んふふー、お守り」
「では、大事に持っています。ありがとう」
「行ってらっしゃーい」
手を振るルリに応え、クリステルは部屋を後にした。
廊下を挟んだ部屋は応接間であった。広い室内には高級なソファやお茶道具の詰まったガラスの戸棚などがある。ヴェルガの城とはまた違う様式であると、クリステルは部屋を見回した。
「っしょ、よいしょ。これ暑いし重くて」
天井の梁を見ていたクリステルが視線を戻すと、フィオが大胆にも王女の衣装を脱いでいた。
「王女! 立場を弁えて!」
警護の女性が慌てて衣装を着直させようとする。
「え、ちょ、やだやだぁ! ここには私とクリスちゃんとエアしかいないもん! だからいいんだもん!」
「いいわけないでしょう! なんですいつもは礼儀正しいのに! クリステル皇女殿下、どうか――」
縋るような目を向ける女性を見てクリステルは小さく笑ってしまう。
「いいえ、この場合、無礼なのは私の方です」
「は?」
「フィオ王女とは、いいえ。フィオちゃんとは国も身分も忘れ、友人として接しようと約束をしていたのです」
クリステルの言葉にフィオはふふん、と勝ち誇ってふんぞり返る。
「ほらほら、クリスちゃんとは約束があるんだよ。王女同士の約束を反故にする方が駄目なんじゃないの? エアは友との約束を破るような人になっちゃいけないっていつも言ってるよね、っふっふ」
「っく、なんて憎たらしい顔を」
「なんて言おうと私の勝だから、よいしょっと」
そう言って王女の衣装を脱ぎ捨てたフィオは白いワンピース姿になった。
「やっぱりこの格好が一番だよ。そうだクリスちゃん、こちらは私の護衛を務めるエアです」
床に落としたフィオの衣装を拾い上げていたエアはすぐに向き直って敬礼する。
「フィオ王女の警護を務めます、エアと申します。お見知りおきを」
「クリステル・シェファーです、どうぞ、よろしく。これまでの厚意に感謝いたします」
クリステルが礼を尽くすと、エアはいっそう背筋を伸ばした。
「エアさん、私とフィオちゃんはこれより友人として接します。どうかあなたも肩の力を抜いて下さい」
「っは。では失礼ながら、フィオ様のお召し物を回収させていただきます。どうぞごゆるりとお過ごしください」
そう言って再び床に手を伸ばす。エアの纏う軍服は金のモールやボタン、肩章や勲章がある。白絹の手袋、白いタイツ、赤いブーツ、腰に差したサーベルと何もかもが凛とした軍人のそれであるが、今は腰を曲げてフィオの脱ぎ捨てた衣を集めている。苦労しているらしい。
「久しぶりだねクリスちゃん」
後ろ手に腰を曲げてフィオは微笑んだ。
「ごめんね、迷惑かけて。大切な友達なのに。もっとちゃんとした形で遊びに来れたら――」
「ううん、そんなことない。とっても嬉しい――クリスちゃん病気は治ったの? 外出禁止って聞いてたのに」
「うん、色々。本当に色々あってね」
「じゃあさ、お茶しながらお話ししよう? 私もあれから色々あったんだよ。そのこと話したいし、クリスちゃんのこともっと知りたい」
クリステルはフィオに手を引かれ、高価なソファに腰を下ろした。
「ちょっと待っててね準備するから」
「あ、私も手伝う」
「いいよお客様なんだから」
「そうなんだけど、もし迷惑でなければフィオちゃんと一緒にやりたくて。昔みたいに」
それを聞いたフィオの顔が一気に紅潮する。
「う、うん、そうだね。一緒にできれば嬉しいかも」
「ありがとう――そうだ、エアさん」
ドアの前に控えていたエアが即座に「はい」と応える。
「私の仲間達のことですが――」
「クリステル様のお仲間にも同様におもてなしをさせていただいております。どうかご安心を」
「?――そうですか」
僅かにエアの声が冷気を帯びた気がした。
「どうか今は王女とお話をしてあげてくださいませ――あのように嬉しそうな笑顔を見るのは久しぶりで」
フィオは鼻歌交じりに戸棚から食器を取り出している。時折、クリステルと目が合えば満面の笑みを浮かべ、頬を染めた。楽しくお喋りできることが嬉しくてたまらないといったふうだった。
ここまでしてくれた友に礼を尽くさなければならないと思う。今は彼女との時間を大切にすべきだと判断した。
「私も嬉しいです」
クリステルはフィオの元へ向かった。
「初めて会った時って私たち七歳だったよね」
「そうだね。フィオちゃんが部屋に来てくれたことよく覚えてる。あの日も病気で寝てばかりで、外の人達はどんなお話してるのかなって思いながら天井の模様を数えていたら」
「泣きべそかいた私が来たんだよね」
「そう」
当時を思い返してクリステルは微笑む。
「恥ずかしいよ」
フィオも微笑みながらコップに生姜を入れる。
「クリスちゃん生姜って平気?」
「うん」
「よかった。これね、元気が出るお茶だから」
フィオはコップに熱いお湯を注いだ。
「アーバン国の王女としてヴェルガ国に招かれた時ね、すっごくウキウキしてたんだけど。私ずっと一人ぼっちだった。知らないおじさんとかおばさんに挨拶してばっかりで、恐くなって泣き出しちゃったの」
「背が大きい人から挨拶されると恐くなっちゃうよ、仕方ないよ」
「それにね、ずっと同じこと言うだけなんだよ。私はアーバン国王女、フィオ・セフィラム・グレイスハートです、なんてね」
クリステル達はコップを手に、椅子に腰かけた。
「泣いた私にお父様はすごく怒って。でもクリスちゃんのお父様は優しかったな、同じ年頃の娘がいるから会いに行ってやって下さいって言ってくれた」
クリステルは湯気の立つコップに目を落とした。ゆっくりと啜ると、生姜の辛みとハチミツの甘みが舌を包んだ。
「クリスちゃん病気で辛かったのに、私を慰めてくれて。嬉しかったよ」
「私も友達ができて、とても嬉しかった。フィオちゃんと一緒に読んだ絵本、まだちゃんと仕舞ってあるよ」
「うそ!? また読みたいな」
「うん」
フィオは肩を揺らしながら微笑む。
クリステルはしばし目を閉じ、やがてゆっくりと力強く開いた。
「私はヴェルガを元通りにしないといけないの。全て終わったらまた昔みたいに――」
「わかってる。できることがあったら言ってね、私はクリスちゃんの味方だから」
「フィオちゃん」
フィオにはアーバン国の王女としての立場がある。ヴェルガが捜索している皇女を匿い、まして現政権に反逆しようとしている者達に協力したとあっては大変な責めを負わされることは目に見えている。
「気持ちは嬉しいの、けどこれ以上迷惑はかけられない――」
「クリスちゃん」
フィオは腰かけていた椅子をぐいっと動かしてクリステルの前に出る。
「心配いらないよ、ちゃんと手は打ってあるの。それにこういう時は頼ってくれた方が嬉しいな、友達なんだから」
「でも――」
「エアだってきっと同じこと言うよ。そうでしょエア?」
扉の前に立っていたエアが、機械人形のように顔だけ彼女たちに向ける。
「っは。クリステル様、どうぞご遠慮なさらずに。我々もこの機会に恩を売ることで、やがてはヴェルガにたかることができますので」
「なな、な!? なんてこと言うの!! 違うよ! 違うからね! 私そんなつもりじゃないからね!」
フィオは強張らせた顔を真っ赤にして怒った。
それを見たクリステルは思わずくすりと笑ってしまう。
「ありがとう。ねえエアさん」
「っは」
「フィオちゃん、かわいいですよね」
「外面だけなら」
その後、しばしフィオは怒って暴れた。
・・・・・・・・・・・・
ひと段落してからは色々な話をした。
クリステルとフィオが過ごした時間は九年前、それもたった一晩のみである。以降は文通を続けていたが、クリステルが桜花に訪れてからはそれも叶わなくなった。
クリステルは桜花でのことやこれまでのことを話した。フィオは王女としての戴冠を受けるまでの話をした。互いにこれまでのことを話しつくし、やがてこれからのことを話す段になったが、
「クリスちゃん、また明日にしよ。疲れたでしょ」
「あはは、ちょっとはしゃぎすぎちゃったみたい」
「また明日もこうやって楽しくお話できるよ。あ、明日はさクリスちゃんの仲間も一緒に話せるかもしれないし。アヤメちゃんにルリちゃんに、ソニアちゃんにピアちゃん」
「うん、そうできたら嬉しい」
「できるよ・・・・・・辛い旅だったんだね、ここにいる間はみんなが笑顔になれるといいな」
「・・・・・・フィオちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
クリステルとフィオは抱き合い、互いに背中を撫で合った。
クリステルは僅かでも心休まる時間ができたことが嬉しかった。明日もきっといい日になる。そう信じていた。




