消えた星 魔
桜花国 現在
「なんだこれ――これはまた、随分と大きな穴が」
首都から九里ほど離れた寒村を歩いていた旅人は、或る大穴に目を見張った。
「人の仕業とは思えんな」
大穴は地中深く伸びているようだ。好奇心のままに手にした石を放ってみた。
すぅ、と闇に落ちていく石を見ていると。
「その穴に近づいちゃならん! 立ち入り禁止の看板を見なかったのか!」
通りかかった村人の怒声に、旅人は驚いた。
「すまない旅の者だ、許しておいてくれ」
「俺が許しても穴の主はどう思うかわからんぞ、さあ早くここから立ち去れ」
「へいへい」
旅人は最後にもう一度だけ大穴を見る。闇の奥から獣がこちらをみているような気がした。やがて唸り声も聞こえてきたが、よく耳を澄ませると、それは大穴を吹き抜ける風の音であった。
「ところでこれはなんの穴で?」
自然にできた穴ではない。
何か巨大なものが石をかみ砕き、壁を斬り裂きながら地上へと掘り進んだのだ。何かが通り抜けたということは旅人にも理解できた。
「もう十年以上前だ、この地に住まう怪猫様が飛び出たのよ。触らぬ神に祟りなしだ、早く離れろ」
「その猫は酷いことを?」
「流行り病やら不自然な死やらを運んできた。一人の娘が生贄に捧げられて事なきを得たんだがな・・・・・・だがその娘、村に帰ってきたんだ。そして誰に触れられたわけでもないのに身籠って、一人の赤子を産んだ」
「子供を、産んだ」
「あれは人間じゃねえ。モノノケの子供さ」
カツーン、と。投げた小石の音が大穴から聞こえた。
・・・・・・・・・・
「なんだこれは!」
シュタインは理解を越えた光景に、震え上がった。目前には人間を丸のみできるほどに巨大な化け猫の姿があった。
白と灰色が混じった毛は針の山を思わせ、口元から覗かせる歯はどの剣よりも鋭利だった。尾骨よりやや上から生えた尾は背に揺らめき、指の先から伸びた獣の爪は大地を裂いた。両目は月のような金色の輝き。金の目には縦に割られた黒い瞳孔が刻まれ、その奥にはただただ茫漠たる闇が広がっていた。
「撃て! 撃ち殺せ!」
彼が恐怖に震えるのは、数十年ぶりだった。
・・・・・・・・・・
頭がぼんやりしている。蒸し暑い部屋で不快な惰眠を貪るようだ。私は何かを強く願っていたはずだが、今はそれがわからない。
目の前では小人がなにやら喚いている。彼らが持つ小さな棒切れから光が出る度、体をつつかれたような痛みが走った。あまりいい気分ではないから止めてほしくて、小人達を手で薙ぎ払った。軽く触れただけなのに、彼らは粉々になってしまった。
慌てふためいた彼らは、四角い箱に乗り込んで私に光を放つ。今度は少し痛い。頭に来たから爪で引き裂いてやった。四角い箱は二つに割れて、中から小人達が慌てて飛び出してきた。
小人の一人と目が合った。誰かは思い出せないが、この男の顔を見ていると不快だった。この男を殺すことが、私の願いであった気がする。こいつは大切なものを、私から奪っていったように思える。
殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。
私は男を咥えると、牙で噛みつぶし、小人達の前に吐き捨てた。とても気分がよかった。きっと私の願いは、こいつを殺すことであったのだ。
他の小人達は叫びながら、銃を撃った。
そうだ。確かあれは銃というのだ。
私は銃を持つ小人達を睨みつけた。錯乱した小人は発砲してきたが、銃が暴発して何人もの小人が死んだ。私の目を見た小人は、あれよと言う間に白髪の老人になっていった。
やがて彼らは抵抗を止めて、蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。しばらくすると、周囲には誰もいなくなった。小人達には逃げ帰る場所があるようだが、私はこれからどこに行けばよいのだろう。
ふと、足元を見ると、小さな女の子が倒れていた。この子は誰だっただろう。とても大切な人だった気がする。
少女のお腹から、血が流れていた。綺麗な肌から血が出ているのは可哀そうだったから、優しく血を舐めとった。少女は甘い匂いがした。血だまりの近くで、リボンが落ちているのが見えた。頭が割れる様に痛みだし、私は咆哮した。
気が付くと、私は闇の中で巨大な化け猫と向かい合っていた。猫は私をじっと見つめたまま動かない。不思議と恐怖はなかった。
目と目が合った瞬間、心が通い合ったような気がした。
思い出してみよう、私が誰であったのか、何をしていたのか。
記憶をたどる途中で、私はあることに気づいた。猫は私を見ていなかった。私の背後にある何かに目を向けているのだ。
振り返ると淡い光があった。綺麗だが、とても弱弱しい光。まるで水面に映る月のようだった。ゆらゆらと揺れる光は私の前を漂っている。そっとそれに触れると、僅かに輝きが増した気がした。
私はよろめく足取りで、更に光に近づいてみた。手を伸ばして柔らかい光に触れてみる。その度、輝きを増していくが、反対に私は吐き気を覚えた。だが私は満たされていた。あの小人を噛み砕いた時以上の快感があった。
私は誰かを殺すことを願ったのではない。この光をより、輝かせることを願ったのだ。
そっと光に触れる。溢れだす光はますます激しくなった。
・・・・・・・・・・
クリステルは青い空を白く塗り潰した積乱雲を見上げていた。下からつけ上げる風に促され、雲はどこまでも伸びていた。風に乗って草の匂いが頬をかすめた。その時、水滴が頬を切って後方へ飛ばされていくのを感じた。頬に触れてみると、自分が泣いているのがわかった。
「どうして私は泣いてるんだろ」
目を手で拭ったが、涙は次々と溢れて止まらなかった。向かい風は涙を奪っていくが、胸の痛みは残ったままだ。
このまま平原で佇んでいるわけにはいかない、と思い出したのは、涙を拭うこと止めて無理に微笑んだ時のことだった。ここで泣いていても仕方がない。とにかく行かなければならない場所がある。
自分がどこにいて、これからどこへ向かおうとしているのかはわからなかったが、不思議と歩かなければならない方角は理解していた。
決意すると、風は追い風に変わった。背中を押されるようにして歩き出すと、白い雲の隙間から空の藍が見えた。
手を掴まれたのはその時だった。
「待って」
振り返ると、誰かが私の手を掴んでいた。涙で視界が歪んでいたから、それが誰であるかはわからない。目に溢れた水を通して見たその人は、大切な人であったような気がする。
「でも、私は向こうに行かなくちゃいけないの」
その人は微笑んで首を振った。
「いや、私と一緒に戻ってほしい」
草の緑が滲む香りの奥で、懐かしい匂いがした。
「駄目だよ、この道を進まないと。これからずっと一人で、歩いて行かないと」
クリステルは自分で言っておきながら悲しくなった。けど、そう言うしかなかった。これから独りになることは決められていることだ。
「私にもわからないが、あなたはこちらへ戻るべきだと思う。私だけではない、大勢の人があなたを待っているように思えるんだ」
「そう、だったかしら」
その人が否定してくれたことが嬉しかった。
「なにより、私はあなたと一緒にいたい。どうか私と戻ってくれないか?」
「でも恐い。この道を進むよりも、戻ることの方が恐い」
「実を言うと、私も恐い」
私の涙をそっと拭ってくれた。
「だからこそ一人にしない。ずっと一緒にいるから」
「あなたは誰?」
「私は誰だろう。あなたは誰?」
「わからない」
「でも」
「うん、でも」
「「あなたを知っている」」




