宿る影
ルリはアヤメに対し強い憤りを覚えていた。
彼女がアヤメの拘束と実験に使われていることを知ったのは数日前のことである。自らが調合した薬の危うさを知るルリは上官に懇願し、アヤメを実験体として使うことを中止させた。
既にアヤメは覚醒しており、実験は一応の成功を収めていたので上官はルリの頼みを聞き入れた。アヤメの頭には猫の耳が生えていたが、薬を打つのを止めると伸びた植物が土に戻るようにして引っ込んでいった。
それから医務室へ運び、今日までの間つきっきりで看病を続けた。アヤメの顔を見続けていると、抵抗し難い引力に引き寄せられていく。アヤメは美しい。他の桜花人とは一線を画しているのはすぐに見て取れる。野花の咲く平原に、一本だけバラが咲いていれば誰でも目を見張ると思う。
アヤメお姉ちゃん、お姉ちゃんは私だけのもの。
怪しい血のうずきと、抱えていたひたむきな恋情が指の先まで行き渡っていくのを感じる。そうなる度、自分がどうしようもなくアヤメを求めていることに気づいた。
指通りの良いアヤメの髪を梳いていた時、白いリボンが目に留まった。
思い返してみてもアヤメがこのような装飾をしている姿は見たことがない。手に取って見てみると、あつらえるのも難儀そうな刺繍が施されている。桜花にこんなものはないはずだが、どこで手に入れたのだろう。首を傾げているとアヤメが寝言を言った。
クリステル様。
聞き違いではない。確かにアヤメの口はそう言った。一度だけなら対して気にも留めなかったが、眠るアヤメは殊更にその名を呟いた。
クリステルとは誰だろう。このリボンを送ったのもその人物なのではないだろうか。
ルリの心にざわざわとしたさざめきが生まれた。
クリステルとは何者なのか。アヤメの体に鞭を打った拷問官、アヤメの体に薬を打ち込んだ白衣の男の体に聞いた。犬や牛のように泣き叫ぶだけの男達に、ルリの加虐は増した。アヤメを傷つけた者は元より殺すつもりだったが、死ぬまでいたぶっても答えは聞き出せなかった。
ルリが犯した殺人は軍法会議にかけられるべきであったが、桜花軍は新薬の実験に貢献していた彼女を咎めることはなかった。それどころか、ルリに新たな任を受けてくれまいかと頭を下げたのである。
アヤメの逃がしたクリステルの暗殺である。
この時点でルリはアヤメとクリステルの関係を知ることとなる。
しかし、アヤメに対しては一切を知らないといった風に見せていたのである。
クリステルが生きて帰国したことで桜花はヴェルガに睨まれていた。帰国後のクリステルは行方をくらませ、ヴェルガの捜索隊も手を焼いているらしい。戦争を非難するクリステルは政権に反旗を翻す危険分子である。彼女を桜花人の手で討ち取れば、桜花国の名誉は保たれる。
アヤメを解放してはどうか、という意見が出た。クリステルの命を救ったアヤメが危険に晒されれば、彼女は助けに来るのではないだろうか。そうなれば一網打尽にすれば良い。
元よりアヤメは軍の命令に逆らった身。一度主の手に噛みついた犬は二度と忠犬には戻れない。新薬の実験にも貢献したアヤメは用済みである。クリステル共々、その場で斬捨てればよい。
この命令にルリは激怒した。
ヴェルガの皇女は私が殺す、だがアヤメに手を出したら許さないと言った。
軍は頭を抱えた。桜花国としてもルリのような数少ない優秀な兵士を失いたくはない。命令に背いたアヤメは使い物にならないだろうがルリは手放してはならない。
皇女を殺すこと、アヤメを生かすこと。この条件でルリは命令を聞き入れたのである。
だが、この命令とルリの怒りはまた別である。桜花人であるのにヴェルガ人に心を許すアヤメが許せない。なにより自分の他に心を許す相手がいることが許せなかった。
悔しかった。出会ってからずっと一緒で(戦争中は離れてしまったが)永遠に一緒にいるのだろうと思っていた。アヤメもそう思ってくれていたはずなのに。それなのに、いつの間にか他の娘に気を取られているなんて。悔しさで涙が出そうになる。
気が付けばルリは眠っているアヤメの髪からリボンをむしり取っていた。白いリボンに舌を這わせて唾液を染み込ませた。次にアヤメの唇へ目を向けた。もしかしたら、クリステルはアヤメに口づけをしたかもしれないと考えた。大陸の奴らは気安く肌に触れてくることをルリは知っていた。そしてアヤメに口づけをしてその唇を綺麗に舐めとったのである。
ヴェルガ皇女クリステル・シェファー、アヤメちゃんは誰のものでもない。あたしのもの。次はこんなことが二度とできないように殺してあげる。
ルリは強い怨恨を募らせていった。