消えた星 鼓動の意味は
大事あってはいけないというソニアの薦めもあって、右手の痛みを引きずりつつ二階の寝室へ向かうことにした。
痛みで滲んだ汗を拭き、刀を帯から外して階段を登ろうとした時、ふっと足を踏み外して倒れた。
手にしていた刀ごと床に打ち付けてしまい、ガタンとした物音に皆が振り返った。
その瞬間、体の奥から湧きあがった痛みに思わず声を荒げてしまった。
「うああああああっ! っく、がああああ!」
骨が皮膚を突き破るように動き、筋肉は絞るように伸びては縮むを繰り返す。僅かな身じろぎで骨が砕け筋肉が千切れそうなのに、電流が体の髄を貫くような激痛にじっとしていられない。釣り上げられた魚の如く、床の上をのたうった。
板場で食器を洗っていたリラが何事かと駆け寄ってくる。
「ちょっとあんた大丈・・・・・・ぶ」
私に触れようとしたリラが青ざめてじりじりと後ずさる。
獣の耳と尾が飛び出し、五指には鋭い爪を生やし、目は赤黒く口元に牙を携えている私はまごうことなき化物だ。
「な、なにあんた、それ」
この奇怪な姿で、しばし身動きもなくリラの方を見た。
全身を強張らせたリラは息をつめており、緊張の時間が続いた。
「うがっ! ああああ!」
辺りの空気を激しくつんざいた私の叫びに、リラは「きゃあああ!」と悲鳴を上げて腰を抜かした。
「アヤメさん!」
クリステル様とピアが駆け寄ってきて、私の体に触れた瞬間、
「ガハッ! ゲフッ!」
口から黒い液体を吐いた。
「しっかりして! なんで、どうしてこんな」
「アヤメさん、ちょっと触りますよ。大丈夫ですからね」
ピアの手がわき腹を撫でると、ゾワゾワとした怖気がわき腹から首筋にかけて駆け巡った。そうして私は再び黒いものを吐き出した。
「この痙攣と瞳孔の開き具合――ショック症状の一種です」
「ショック症状ってどういうことピア!?」
「アヤメさんはもともと桜花でなんらかの薬を投与されていたんです。その影響で獣の力が出せるようになったと言っていました。恐らくこれは反動。人体の力を無理やりこじ開ければ、必ずどこかに歪は生まれます」
「そんな・・・・・・アヤメさん」
クリステル様が私よりも辛そうな表情を浮かべた。
「大丈夫、大丈夫だからね」
手を握ってくれる。
「ひとまず二階に運んであげましょう、ここでは治療もできません――ソニアさんはリラさんをお願いします」
ピアの言葉に頷いたソニアはしりもちをついて震えているリラの元へ駆けて行った。
・・・・・・・・・・
「ぐぅううおあああっ!」
激しく動かした筋骨はどうかしてしまったのか、もはや痛み以外の感覚すらない。
ベッドに寝かせてもらった瞬間、体中の古傷がいっせいに開いた。心臓を中心として、かつて負った傷が波紋のように広がって開き、血しぶきが飛び散った。
どうしたことだこれは、これまでこんなことは一度もなかった。幾度も解放していたせいか。
ピアが必死に包帯を巻いてくれているがとても間に合わない。この苦しみの元を止めなければ意味がない。だが、急速に効果をもたらすような治療法がない。
クリステル様が手を取って何か言葉をかけてくれているがうまく聞き取れない。
苦痛で鋭くとがった意識の底。深い部分から聞き慣れた声が聞こえ始めた。
コロセ
「うっ!」
咄嗟に手で耳を覆ったが、これは外からではなく内から聞こえる声だ。どうしようもなかった。
お前は儂の娘じゃアヤメ。強欲な人間どもを喰い殺せ!
「はなっ、離れてくれっ! 私から離れて!! 向こうへ行って!!」
叫べばその分だけ傷がゾゾゾと開き、血が飛び散る。
コロセコロセコロセ
「お嬢様! ピア! 早く向こうへ!」
彼女たちの手を振り払い、自分を抱きしめるように、両手を抱いて蹲った。
「うるさい、この力は私に宿った物だ、私が好きに使っていいはずだ」
コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ
「ぐ、やめろ。消えてくれ! 私はそんなこと望んでいない!」
・・・・・・・・・・
クリステルは息を呑み、そっとピアに告げる。
「ピア、部屋から出ていてください」
「そんな、お嬢様だけでは」
「いいのです。私がアヤメさんを救ってみせます」
物柔らかな口調で云う。何事か考えのあるふうに見えるクリステル。狼狽えているような調子でないことを察したピアは、上気したものがすっと抜けていくのを感じた。このように決意したクリステルにピアは絶大の信頼を寄せている。
世の誰しもを惑わせる美貌を宿し、豊かな暮らしと、やや放縦された生活を約束されたクリステルであるが、その中でも謹直に、つつましく生きている。身分の差を傘に着せることもなく、慈愛は誰にも平等に向けた。信念を持って立つ姿は美しく荘厳である。
この方には口ではうまく説明できない力がある。そう信じている。
今のアヤメは彼女自身が抱える苦悩と葛藤し、その苦しみが肉体と感応し、傷を負っているように見える。実際、薬物によるショック症状を起こす者達は、己が創り出す幻覚に苦しめられるものが多い。心と肉体は一つ。心を救えればあるいは。
クリステルなら彼女を苦痛から解き放てるのではないかと思った。
「わかりました、なにかあればすぐに呼んでください」
恭々しく一礼し、ピアは部屋を後にした。
ピアが去るのを見届けると、クリステルは懐から金のロケットペンダントを取り出した。クルミほどの大きさで、中心には鬼灯色の石が埋め込まれている。蝋燭の光の中で石が濡れたように輝いている。
石を押すと、カキュっと鳴ったロケットの隙間から数粒の丸薬が現れた。
「なにを、しているのです、か」
アヤメはシーツに額を擦りつけながら問う。
「これはシェファー家に代々伝わる秘薬だよ。私たち皇族は命を狙われることがある。毒殺された祖先もいたのよ。そうならないため、皇族には解毒効果のあるこの秘薬が手渡されるの」
「・・・・・・? なにをしているのですか、やめ、やめてください!」
「僅かでも効き目があるはずです、これをあなたに」
「それはあなたのものだ、これからいつそれが必要になるとも限らない!」
アヤメは泣くような声で怒号した。
「今がその時だよ」
「違うっ! っぐ、ああぁ」
「違わない」
「いいですから、私のことは放っておいてください――ウエッ、ゴホッゴホッ」
クリステルはベッドに腰かけ、アヤメの体を抱え起こした。
咄嗟にアヤメの右腕がクリステルの胸を抉ろうと跳ね上がった。
「ウッ! ッグ!」
爪がクリステルの胸を貫くすんでのところで止まった。アヤメは自らの右腕に噛みつき、想い人の流血を防いでいたのである。
「向こうへ行ってください、抑えてみせますから」
「行かない」
「それを私に飲ませようと言うなら、嫌いになります――しばらく口もききません」
「アヤメさん、あなたは私に恋人の苦しむ姿を見続けろと言うのですか」
クリステルはアヤメの右腕に口づけた。そうして流れる血をコクリと喉を鳴らして飲み込んだ。
「何度も私を助けてくれたよね。あなたの血で、私は鼓動を続けられてるの」
あまりのことに騒然としたアヤメは思わず口を噤む。
クリステルはアヤメの額に頬を押し付けた。アヤメは前髪の隙間から見上げるようにクリステルを見た。アヤメの冷え切った頬に口づけ、彼女の匂いを嗅いだ。
ゆっくりと手と手を合わせ、指を絡ませる。
獣の爪がクリステルの指に食い込み、柔らかい乳白色の肌は容易く裂けた。赤い血が手をつたって流れ落ちる。
一瞬だけ表情を固くしたクリステルであったが、すぐに常のように落ち着きのある笑みを浮かべた。
顔を真っ青にしたのはアヤメである。
「あ、お嬢様、なんてことを!?」
「いいよ、平気だから」
「嫌で! す! どんな小さな傷も負わせたく、ない」
アヤメは目を閉じた。閉じた瞼の中に、かつて殺めたハルカが浮かんでいた。
ハルカの悲し気な、恨むような瞳が大きく浮かんでいる。
「かつて私は大切な友を殺めてしまった――繰り返したくないんです。ずっとあなたの傍にいたい。だから今は私から離れて」
「ずっと一緒にいるのなら、二人で乗り越えなければならない時もあるはずです」
クリステルはアヤメの首に手を回し、胸に抱き寄せた。
「あっ」
胸に顔を埋めたアヤメの脳裏をよぎったもの。
愛おしい
愛しさのあまり――
「お嬢、さ、ま」
肉体だけでなく、心の内からもモノノケの力が沸き起こっているアヤメには逆効果であった。クリステルの抱擁により、アヤメは抑えきれない衝動に襲われることとなった。
コロセ
こうして抱き留めたクリステルの体はたまらない。弾力のある柔肌は少し力を込めただけで容易く折れてしまいそうだ。このしなやかな肌を引き裂き、温かい血飛沫を浴びればますます高揚するのではないか。
コロセコロセコロセ
クリステルの両肩をガッキと掴むと、力任せにベッドへ押し倒した。
「うっ、アヤメさ」
ぐいっと顎を持ち上げ、その唇に噛みつくような口づけをする。
「んっ! んぅっ!」
拘束するかの如くのしかかり自由を奪った。そして牙を立て、しっとりと濡れた唇の端を噛む。
ガリッ、と音がして、アヤメの舌に血の味が広がっていく。そのままチロリと舌の先を覗かせ、火照った頬と唇を舐めた。
熱い吐息と濡れた舌の感触に、ビクン、と震えたクリステルは苦しそうに表情を歪めた。噛み傷を舌先で押し広げられ、尚も血を舐め取られる。唇を舌で封じられ、息苦しさも増していく。
それを見てアヤメは笑みを浮かべていた。
「好き、大好きですよ。お嬢様」
焦点の合わない虚ろな瞳のままアヤメは言った。
「アヤメさん・・・・・・私の血が、欲しいの?」
「ええ、たまらないほどに。もっともっと欲しいです」
唇の端を尚も吸い続けた。
赤い血が極上の蜜となり、アヤメの魔が底気味悪く肥大していく。
クリステルの纏うブラウスをはだけさせ、白く透き通った肩を露出させる。アヤメはそれを見て口角を吊り上げた。怪しげな牙が薄暗い部屋で浮き出ているように見えた。
「もっとほしい、血と苦しみの声、ほしい、憎悪と艶やかな声」
さあ睨め、さあ憎め、そうした人間の本性を向けられると、言いようのない歓喜が体を貫く。アヤメの奥底で、魂にまで染み付いた何かがそう囁いた。
「そうしたいのなら、どうぞ」
クリステルは仰向けに横たわったまま、真っすぐにアヤメを見つめていた。アヤメの背に、揺らめく蝋燭の火と影がたゆたっている。
アヤメは左手をベッドについて体を支え、右手はクリステルの手を掴んでいる。
クリステルが呼吸するたび、乳房と金色の髪が揺れた。
二人とも一言も発しなかった。ただ、黙ってお互いを見ていた。
静かな時間が流れていった。
その中で、二人の瞳が重なりあい、やがて同じ色を宿し始めた。
「ううっ、ううぅ」
俯いて呟いたのはアヤメである。美しい表情をくしゃくしゃに歪め、肩を上下させて荒い呼吸をする。
「ひどい、こんなの、私はなにを」
クリステルは体を起こし、「・・・・・・おいで」と言ってアヤメを再び抱きしめた。
「やだっ、離れて下さいっ」
「離れない。あなたも滅入っていた私を一人にしなかったわ」
「あの時とは違います、それにあなたは、私を傷つけたことはなかった」
「そんなことない・・・・・・私もアヤメさんに勝手なことをしてきたよ。桜花で初めてキスをした時のこと覚えてる?」
「・・・・・・はい」
「その後、言い争いになって頬を叩いたわ」
「覚えています」
「スネチカでも。私いやな夢を見て、苦しくて、それであなたに辛くあたって」
冷えた体を温めるように、クリステルの温もりがそっとアヤメに移っていく。
「私はあなたのために傷つくことを恐れません、あなたもそうでしょう? 私たちは対等であるべきです」
「しかし」
「アヤメさん、何度言えばわかるのですか。あなたの苦しみは私のことでもあるの。半身そのものなのよ、だからお願い。これを飲んで」
丸薬を口に含んだクリステルはそのままアヤメに口づけた。
「ふむっ!?」
「ん、んう」
ゴクリ、とアヤメの喉が鳴るのを聞いてからクリステルは唇を離した。
「・・・・・・クリステル様」
「ん?」
「クリステル様、クリステル様」
「うん、わかってるよ」
そうして少女たちは互いを支えるようにして抱き合った。
「眠れないとき、アヤメさんはお母様に手を握ってもらったんだよね。私はね、子守唄を歌ってもらったの」
背中をさすられたアヤメは、クリステルの胸に顔を埋めた。長い尾は恋人を離すまいとするように、ピタリと体に張り付かせている。
「聞きたい、です」
クリステルはアヤメの頭に頬を乗せ、かつて母から聞いた子守唄を歌った。
ピン、と張っていた獣の耳がゆっくりと下がり始め。鉄をも切り裂く爪も引っ込んでいった。
柔らかい声と、温かい肌の温もりの中で次第にアヤメは微睡みはじめ、やがてクゥクゥと小さな寝息を立て始めた。すると開いていた傷口が塞がり始め、出血も止まったようだった。
「そういえばこれ、返してなかったね」
クリステルはアヤメから預かっていたリボンを取り出した。アヤメと自分の髪を重ねて束ね、そこに純白のリボンを結んでいく。額に優しく口付けて、壊れてしまわないように努めて優しく抱いたまま、いつまでも背中を撫で続けていた。




