物言わぬ守護者の残滓
隠し階段の扉を開けると、全員が顔を覗かせた。議員達も護衛たちも、ピアも、そしてクリステル様も。
呆れてしまう。
「じゃーんアヤメちゃんと私、戻りましたよー」
「も、戻りました」
ほっとした表情を浮かべるクリステル様。
約束通り再会することは叶ったが、ぐっと詰まるものがあった。
合理的に考えれば、クリステル様達は私を置いて逃げるべきだったのだ。
私は敵を倒して戻ることを、クリステル様達はこの場から離れることを決めた。それは双方が承諾した約束だった。その約束は守られなかったのだ。
ソニアにだけでなく、クリステル様たちにも何故私を置いて逃げなかったのか、それがいかに危険であったかを説くべきだ。
だが、もしソニアが戻ってくれなければ私は五体満足で戻ることができただろうか。
いくつもの感情が浮かんでは消えていき、言葉にすることができない。
落としどころのない感情を抱え、私は不機嫌そうに口をとがらせてしまっていただろう。口で言わずとも、目で語ってしまっていたらしい。クリステル様は困ったような、嬉しいような笑みを浮かべていた。
「ソニア、ありがとう。無理をさせてしまいましたね」
「いやいや、私が戻りたいって先に無理を言ったのが発端ですよ。私の意見を聞いてくれたクリステル様には感謝してます、アヤメちゃんと一緒じゃなきゃ私が嫌だったので」
命を懸けたやり取りの中ではもっと合理的に動いてほしい、と思う一方で合理を無視した何かが抗うのを感じる。愚の骨頂と思えるものが、時に何よりも美しく映る時がある。それに近しい何かを感じるのだ。
事実、胸の内では柔らかい風が吹いていた。
腹の底から突きあがってくる感情。それは熱いものへと変貌し、魂の底に優しく触れてくる。目頭が熱くなり始めた。
まずい、泣いてしまいそうだ。
「失礼します」
「あっ」
ごまかすようにクリステル様を抱き上げた。
「進もう、追手がくる可能性もある」
「よーし、みんな行くよー」
同じようにしてソニアがピアを抱き上げて進む。
階段の先は洞窟である。
暗闇の中で灯りを灯すと、巨大な空洞が浮き上がる。この大きな空間には屋敷一つ埋まりそうだった。ごつごつとした岩肌は吹き付ける潮風と、大地から染み込んだ雪解け水で濡れている。雪国の冷え冷えとした空気は湿っていた。細かい雨の中を進むようだ。飛沫が肌や衣服に張り付き、行く手の先は朦朧としている。
「足場が悪いからみんな気をつけてね」
そう言ったソニアはピアを抱きつつ、軽やかな足取りで進んだ。
上から垂れ堕ちた雪解け水の滴。宙空の水滴がクリステル様の頬に落ちぬよう、右手の甲で弾く。彼女は風邪をひいている、体を冷やすようなことはあってはならない。
私は大きく息を吸い込んで、力強く一歩を踏み出した。
クリステル様。
まだ風邪で辛いだろうに、命を狙われて心細かっただろうに、私を思いやり、逃げずに待ってくれていた。彼女だけではない、皆が私を思いやり、待っていてくれたのだ。こんな経験は桜花ではなかった。私は嫌われ者だったから。
白状する。私は嬉しかった。嬉しかったのだ。
認めたら再び涙腺が緩んだ。いけない、クリステル様の頬に涙を落とすなど。
歯を噛みしめて進んでいるとクリステル様が急に肩に回していた手の力を強めた。
「あ、揺れるのが辛いですか?」
病人の体は繊細だ。暗殺者に負われている状況だが、彼女の体を労わらなければならないと思っていると。
「ごめんね、アヤメさん」
「はい?」
クリステル様は申し訳なさそうに言う。
「あの――怒ってる?」
「いえ、そんなことは」
「でも――」
言いかけたクリステル様を見た。目が合った時、しゅんと瞳を逸らしてしまった。
合点がいった。きっと私が表情を強張らせていたためだろう。
「違います・・・・・・どうしたらいいのかわからなくて」
「わからない?」
「私のことを信じてくれる皆に、どんな顔を見せればいいのか・・・・・・ですから、怒っているわけではないのです」
クリステル様は私の頬に口づけて、ほっとした笑みを浮かべた。
「なら、笑って」
そう言った。
どこまでも暗い洞窟だが、透き通るような彼女の声ははっきりと聞こえた。
笑みを浮かべようとした瞬間――
「待った!」
「待て!」
私とソニアが声を上げたのは同時だった。
何事かと皆が足を止めて振り返る。
「アヤメちゃん」
「ああ――解放する」
私は再び解放し、猫の目で周囲を見回す。皆が手にしている懐中電灯や松明の光を除けば辺りは真の闇。だが暗闇の中でも、この目を使えばよく見える。
不自然に岩が削れている部分が目についた。この大空洞は自然の力だけでここまで広がったわけではない。
怪しいものが近づくのを感じる。無意識のうちに刃が鞘から抜き放たれる。剣を握ってしばしの内、じっと辺りを伺う。人間以外の生き物の匂いが洞窟内に満ちていく。吹き抜けていく風から、したたり落ちる水滴から、不穏な気配を感じる。
どうして気づけなかった。これほどの巨大な洞窟、地に蠢くもの達には格好の住処だ。
「なにもいやしない、昨日も俺はここを通ったが何も出なかったぞ」
護衛隊長のアヒムが怪訝な顔をしている。
「昨日はいつここを通った?」
「昼だが」
「夜に来てはまずい場所だったらしい」
「なにがだ?」
アヒムが手にした松明を持ち上げると、私たちが走ってきた方角に巨大な胴体がぬっと浮かび上がった。
十メートル近い身長、異様に膨らんだ手足、全身は苔のような体毛で覆われており、丸い目だけが赤く光っていた。
すっくと立って、こちらを見据えていた人型の怪物は、突如、前のめりに身を屈ませた。
ズオオオオオ、と巨大なラッパが響く様な声が洞窟内でこだまする。人型は咆哮し、手にした極大の石斧で鍾乳石を薙ぎ払いながら追ってきていた。
「ひえぇっ!」
幾人かの議員が笛がかすれたような悲鳴を上げる。
「みんな逃げて! 早く!!」
ソニアが叫んだ次の瞬間。
怪物は二歩ほど跳躍しただけで私たちの間合いに入っていた。
あまりのことに茫然としていた皆は未だ己を取り戻せていない。
「動け! 殺されるぞ!」
私が叫ぶとようやく皆は剣や銃を構えて走り出した。
同時に、人型が振り下ろした石斧が周囲を吹き飛ばす。
目の前で大砲がさく裂したような音と衝撃波で私たちは吹き飛ばされる。
クリステル様を抱えて飛びのいたが、石斧から生まれた衝撃破のせいで受け身がうまく取れず地面に激突した。勢いは衰えずそのまま数メートル転がって、岩肌に背中を打ち付けてようやく止まった。
ごぎっ、という音の後、痛みが遅れてやって来た。
「っが、ぐぅ」
左肩をやられた。
「クリステル様」
それでも彼女だけはしっかりと抱きしめていた。頭を打ったため耳鳴りが酷く、視界にはチカチカとするものが瞬いている。右手で彼女の体に触れて確かめたが怪我はない様だ。
「よかった」
次いで、ガラガラと岩が崩れる音がする。
見れば人型の放った一撃で洞窟の上部が崩れ落ちた。崩れた無数の岩が滝のように落ちてきて、やがて山の如く積みあがった。その岩のために私たちは皆と分断されてしまっていた。
『おーい! 大丈夫かー!』
重なり合った岩の奥から皆の声が聞こえる。
私の体よりもはるかに大きな岩は幾重にも積み重なっているため、動かすことは不可能。皆との合流もまた不可能だろう。
「っく」
私は握っていた刀を地面に突き立てて体を支えつる。なんとか立ち上がったが、左手はだらんと下がったままで力が入らない。左手の指を一本ずつ動かす。どれもちゃんと動く。指が効くということは肩が外れたのだろう。千切れ飛んでいないだけ運がいい。
「アヤメさん」
クリステル様の声は震えていた。
「クリステル様はここに。あれを仕留めてきます」
「あ、あなた腕が」
「問題ありません、こんなものは異形対策猟兵部隊では日常でした」
不安を与えないよう微笑んで言うと、彼女は刀を握る私の手を取った。
「私の声が聞こえますか! 逃げなさい! すぐにここから出るのです!」
クリステル様は積みあがった岩の向こうへと叫ぶ。
『し、しかしクリステル様!』
「命令です! 逃げなさい! 逃げて生き延びなさい! 皆無事に生きてヴェルガで会いましょう!」
そう言った後、覚悟を決めた面持ちで私を見る。
「あれから逃げ切れる?」
人型は既に石斧を構えてこちらへ迫っている。ここで背を向けて走れば即座に斧の餌食となるであろう。
「得策ではありませんね。あちらには地の利があるし、身長差もある。逃げても追いつかれます。ここで仕留めるほかありません」
「でも、あなたは! こんな体で戦うなど無謀です!」
「それはやってみなければわかりません」
こうなっては夢幻神道流及び対モノノケ用の新天流とそれぞれの秘術を尽くして戦うよりなかった。
怪物はじりじりと体を屈めて前進する。
私はクリステル様を庇いつつ、その動きに合わせて後退する。
敵の攻撃が頭上より来ることを察知し、下段に構える。
人型故、弱点は人体と類似するはずだが、腕周りだけでも寺の鐘のようだ。あの大きさでは私の刀をもってしても一撃で倒すことなど不可能。致命傷を与える有効な斬撃はどこだ。
次第に追い詰められ、踵に力を入れて飛びぬけに斬りかかろうとした瞬間、人型は手にした石斧を振り下ろした。
「とりゃっ!」
同時にソニアが人型の背後から斬りかかった。 ソニアは背後から忍び寄った後、恐るべき跳躍を見せ、人型の頭まで飛び上がるとそのまま一閃。首元を横なぎに払って、私たちの前にタッと着地したのだ。
人型は首筋から黒い血を迸らせ、二歩三歩と後退していく。
ソニアは右手にロングソード、左手にはピアを抱き上げている。彼女たちも人型の一撃をうまく逃れていたようだ。そして私たちと同じく崩れた岩のこちら側へ取り残されていたのだ。
「ソニア! ピア!」
「クリステル様、二人とも無事?」
「私は大丈夫、アヤメさんが」
「ソニアさん、私の出番です」
「うん、ピアちゃん看てあげて」
「はい」
ソニアは片手で抱き上げていたピアを降ろした。
「アヤメさん、痛いところはどこです?」
「左手だ、感覚はあるが言うことを聞かない」
小走りで近づいてきたピアは私の左手を触診してくれる。
「脱臼です。骨は折れていません、ヒビは入っているかもしれませんが」
「大丈夫だ、モノノケの力で強化されている。そう易々とヒビなど入ってたまるものか――ピア、頼めるか?」
「――痛いですよ?」
「構わない」
「では歯を食いしばって。いちにのさん、でいきます」
「わかった」
とある西側諸国の外科医が医術を学ぶため東へ渡っていたが、ピアはその医師としばし行動を共にしていた。その際、東の国に伝わる骨子術の秘中を学んだピアには骨の結合などお手の物である。
ごぐっ、と肩から音が鳴った。
「うッ」
凄まじい激痛に私は顔面いっぱいに汗を吹き出し、前によろめいた。だが、痛みは一瞬。
よろめきながら剣を左手に持ち替えて空を払ってみる。重い太刀風が吹いたことに安堵する。僅かな痛みの合間に私の左腕は元通り動くようになった。
「どうです?」
「もう二度とごめんだが、問題なくなった・・・・・・ピア、クリステル様を頼めるか?」
「はい」
私は剣を握りしめ、跳躍してソニアの横に並んだ。
「お、アヤメちゃん平気?」
「ああ。それにしてもあれはなんだ」
人型はよろめきながら、ざっくりと斬られた首筋を片手で押さえている。止血をすることで鮮血の音は既に途絶えていた。
「傷の手当てをするとは、ある程度の知性があるのか。体が大きい化け物はあまり頭が良くないはずだが」
「うん、あれはアモンの獣だよ」
「なんだそれは、聞いたことがない」
「ユナ大陸の伝説だからね。端的に説明すると人間が大嫌い。見ればすぐに襲ってきて交渉不可能」
・・・・・・・・・・
アモンの獣とは。
数百年前、アモンの地では多くの魔法使いや奇術師が存在していた。彼らは剣や弓など一切の武器を持たず、一国の軍隊と渡り合っていたという。
彼らが用いたのは己の意思を自然に宿す力。嵐を味方につけ、暴風雨を自在に起こすことが可能だった。だが、その防雨に晒された岩や木々が意思をもって自立することもあった。それをアモンの獣と言い、獣たちはアモンに属していない人間を襲うのだ。
アモンの地が滅びた今でも、獣は意思を携えたまま生きている。
・・・・・・・・・・
「元は岩か何かだったんだと思う、魔法で命を与えられてるの。この数百年、流れ流れてこんな所で生きてたんだね」
「海の向こうは妙な術で溢れているな」
「アヤメちゃんのその猫耳と尻尾だって」
「ソニア、あれに弱点はないのか?」
「わかんないよ、アモンの獣を見たらすぐに逃げろって言われてるし」
「倒すのが難儀そうだからな」
「それとは別にさ――ってあんまり話してる時間もないね」
獣は再びこちらへ迫ってきている。
「相手は人型、血も出る。なら人体と同じ弱点を突くしかないだろう」
「うん、まずは傷を負わせて逃げよう」
怪しく腕を捻りながら、今にもとびかかろうとする化け物が突進のそぶりを見せた時、
「私は上から、アヤメちゃんは足元をすくって」
ソニアが言いつつホルスターから短銃を引き抜いて発砲。
放たれた数発の弾丸が化け物の眼球に直撃する。
うぬっと悲鳴を上げた化け物が上半身をのけ反らせて怯む。目に入った銃弾を引き抜こうと腕を伸ばしたその刹那、
「えいっ!」
伸びきった腕の付け根。人間であれば動脈が通る脇の下めがけてソニアは跳躍。
ソニアの突き出した剣の先端が、吸い込まれるようにして化物の脇に突き刺さった。
同時に私は地を蹴って飛び、化け物の足元に滑り込んだ。
「とうっ!」
素早く構えた刀を横なぎに一閃。電光の如く閃いた刃が、足の付け根を真横に斬り裂いた。
化け物は辺りをつんざく叫び声を上げて仰向けに倒れ込んだ。
「「はっ!」」
今だ、と感じた私たちはほぼ無意識のうち、互いの呼吸を合わせ、仰向けにどうと倒れた化け物の胸に剣を突き立てていた。
私たちは怪物の胸の上で片膝を立て、荒くなった息を鎮めようとしていた。
私の刀は浅く止まっていたが、ソニアの剣は深々と柄まで突き刺さっている。この化け物に人と同じ心臓があれば確実に貫かれている。今や体内は血の海であろう。
何秒かそのままの姿勢が続いた。
化け物が動かなくなって久しい。
「やったのか?」
ソニアに声をかけた。ソニアが私に微笑みかけた時、
ズォオオオ、と醜怪な咆哮が響いた。
上体を反り返らせた化物の口から、何やら光る球体がぼろんと躍り出た。
みるみるうちにそれは膨張を続けていく。
私は即座にクリステル様の元へ、ソニアはピアの元へタッと駆けた。
私たちが守るべき人の手を握ったのと、球体が眩く爆ぜたのは全くの同時であった。
アヤメとソニアが感じ取っていた不穏な気配はこのアモンの獣でございました。
次回はアリスの話の続きです




