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皇女の猫【抑制版】  作者: WAKA
アヤメ篇
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決意

 アヤメが牢獄に囚われている間、皇女クリステルはヴェルガへ無事に帰国していた。

 空港に降り立ったクリステルは、張りつめていたものがプツリと切れてうなだれた。


「アヤメさん」


 本当はこの場に彼女もいるはずだったのだ。

 命令を無視して皇女を助けたアヤメには辛い仕置きか、死が待っているはずだ。美しいアヤメが苦悶の表情を浮かべることを想像したクリステルは、身を裂かれるような苦しみに襲われた。

 命を懸けて護ってくれた優しいアヤメ。人を思いやり純粋に生きる人が、なぜ苦しまなければならないのか。


「ひどいっ! アヤメさんが傷つく必要なんてないのに! こんな世界なんてっ!」


 いつも鋭い顔をしているアヤメが、自分の名を呼ぶときだけはふわっと頬を緩めてくれる。それを見ると、胸の内から温かい感情がこみ上げてくるのだ。

 クリステルはアヤメの温もりを思い出す。涼しげだった目が優しいものに変わり、少し背の高いアヤメに抱きしめてもらう。胸に顔をうずめると彼女の体温を頬で感じることができる。トクントクンと脈打つアヤメの鼓動を聞くと、クリステルの鼓動も高まっていく。それだけで世界の何もかもが輝きを帯びる。


 悲しみに暮れて人生に絶望していたはずなのに、まだ人を愛しく想う気持ちが残っているのだと気づかせてくれたのはアヤメだった。

 あの汚れのない鳶色の瞳を、また向けてほしい。彼女の頬を両手で包み、唇を重ねあわせたい。

 哀願しても敵わぬ願い。それはアヤメが桜花国にいるからだ。アヤメが桜花国に残ったのは私を逃がすため。ならば悪いのは私ではないのか。


 アヤメへの愛慕の念はクリステルの体に深く刻まれており、これに苦悩するほど憎しみにも似た感情が湧き上がる。


「ごめんなんさっ、い。ごめんなさい」


 クリステルは自分の両手で体を抱きしめてうずくまる。色々な想いがこみ上げてきて、視界の先がにじみ始めた。堪えきれず、一粒の涙が頬をつたった。涙が地に落ちる瞬間、一滴の透明な雫が紅く閃いたのを見た。

 見上げた先に、一日の始まりが見える。


 夜明け前の黎明な空であった。空はまだ黒く塗られているが、東に見える地平線の先には赤い朝日がたなびいている。目前にあるのはもう見るはずがないと思っていたヴェルガの陽だ。


「綺麗」


 赤く燃える太陽が闇の淵に思える夜の影を薙ぎ払っていく。どこまでも力強く侵食していく。クリステルはこの朝陽をアヤメに重ねた。護る者のために必死の覚悟をもって立つアヤメの凄絶な姿が、今や幻影となって、しかし目の前にくっきりと現れたのである。

 アヤメの姿は、しばし見惚れるほどに美しかった。

 これを見た時、クリステルの思考に瑞々しい感情が生まれ、豁然(かつぜん)として眼が開いた。クリステルの骨髄に染みついた絶望が一瞬にして四散した瞬間である。


 たとえどのような運命に踊らされ、絶望に身を委ねても世界は動く。そして生は続いていく。

 生きぬいて欲しいと、彼女に言われたことを思い出した。

 アヤメは命を救うだけでなく、大切なことを思い出させてくれた。ここで何もしなければ、それは彼女への裏切りである。


『クリステル様』


 アヤメの声が聞こえた気がした。


「そうだ、くよくよしてる暇なんてない」


 クリステルは萎えた心を奮い立たせ、清浄な黎明の大気の中で悠然と立ってみせた。


「一度は捨てたはずの命――今日は私が生まれ変わった日になる。そうしてみせる」


 この命を可能な限り限界まで伸ばす。そして大切な者のために戦う。

 クリステルがこのように決意したのは、激烈な恋情によるものである。その感情たるや業火の如き勢いで、絶望など火炎に落ちた雪片のように容易く消滅した。


「アヤメさん、今度は私があなたを助ける」


 クリステルはパイロットの静止を振り切り、空港を後にした。

 




 逃亡中の身であるクリステルを保護したのは、現政策に反対するかつての元老院達であった。

 皇女の死を願う権力者たちが住まう王宮に、クリステルは戻れない。ヴェルガ国は皇族が絶対的な権力を握る時代から、軍人上がりの元老院が政権を握る時代に変わっていた。

 政の経験など皆無な軍人達は、国民に対し絶対的な上下関係を強要した。民意を無視した為政者たちは、己の私利私欲のために国を動かしていたのである。

 独裁国と成り果てた国の頂点には、強大な力を持つ軍が君臨している。これに反対する者は追放か死が待っていた。皇族など名ばかりで、実態は不満を募らせている民への緩衝材として偶像利用されているにすぎない。

 ヴェルガを元の平和な国に戻そうと奮励する者達にとって、クリステルの生存は朗報であった。皇族でただ一人戦争に異を唱え、国民の信頼も厚いクリステルは希望の象徴である。なんとしてもクリステルには生きてもらい、民の活力となってもらわなければならない。

 ヴェルガ国首都から西へ下った辺境の村。

 一軒の宿屋で現政権を破壊せんと計画する者達が思い思いに座していた。

 クリステルの座る机の正面には、かつての元老院達がいた。ここにいるほとんどがかつてヴェルガの侵略行為に異を唱えたため追放処分されていた者達である。


「このままでは内戦に突入し、多くの国民が血を流すことになりましょう。それでなくても軍人どもは桜花国へ侵略する腹積もり。どちらにしても流血はさけられません」


 元老院達が城にいた頃はいつもにこにこと微笑んでいる印象であったが、今は過去の姿からかけ離れた雰囲気を漂わせている。


「理解しています。なればこそ、私達が成すべきことをしなければ」

 クリステルが語気を強めると、元老院は安堵したような笑みをこぼした。


「お強くなられましたなクリステル様。心強いお言葉、我等も気を引き締めて参ります」

「病に伏せていましたが、ただ無下に時間を浪費していたわけではありません。皇族としての振る舞い、交渉、政治、そして民を導くためのなんたるかを学んでおります」

「妹御様も同じことを申しておりました」

「アウレリアも?」

「アウレリア様も我等の味方なのです。軍部に悟られぬよう密に連絡を取り合っています。クリステル様がご存命と知った時、涙を流して喜んでおられました」

「アウレリア、あの子」


 あまり感情を出さないはずの妹が、姉を想って涙したことにクリステルは胸を打たれた。


 姉と同じブロンドの髪を肩まで伸ばし、蒼穹を思わせる双眸を輝かせて「お姉様、お姉様」とどこまでもついてくる可愛らしい妹であった。場所などお構いなしにクリステルの腰に抱きつき、桃色に上気した顔を下腹にこすりつけてくることが多かった。クリステルも妹の微笑みに弱く、(たしな)めることはあっても怒ることはしなかった。姉を見つめるアウレリアの目に敬愛と憧憬が色濃く映っていたため。なによりくすんだ生活に明るい色が浮かぶように思えたからだ。


 しかし、今は昔日のアウレリアとは違う。姉であるクリステルが病に伏していたため、代わりとして年端もいかない妹が多くの皇務を担った。主義主張は許されず、周囲には皇女を道具として扱う者ばかり。熾烈(しれつ)を極めた生活の中で、いつしかアウレリアは自己を殺すことを覚えた。感情を表に出さなくなり、ただ言われた通りに動く人形となってしまった。

 

 母が亡くなった時でさえアウレリアは涼しい顔で皇務を続けていた。そんなアウレリアを見た父は、感受性が欠落していると嘆いた。

 その晩、納得のいかないクリステルはこっそりとアウレリアの寝室に向かった。

 暗い寝室の中央に大きなベッドがあり、盛り上がった布団が小刻みに震えていた。アウレリアは肩を震わせ、時折うめき声にも似た声を上げていた。

 クリステルが震える背中を手でさすると、あッと驚いたアウレリアがガバっと起き上がった。その瞳からため込んでいた涙が零れ落ちた。これまで懸命に涙を堪えていたことはすぐにわかる。

 涙が落ちたことで、アウレリアの枷が外れたのだろう。端を切ったように泣き出してしまった。


 お姉様なんて嫌い、みんな大嫌い。そのように批難する妹は姉の胸を何度も叩いた。クリステルは全て受け入れたうえで、泣きじゃくる妹を抱きしめた。あんなに弾力のあったはずの妹の体が、疲労で硬くなってしまっていることに驚き、同時に自責の念に駆られた。


 ごめんねアウレリア、辛いよね。


 謝らないで! いつもわたくしだけ怒鳴って、お姉様は謝るばっかり! バカみたい!


 小さな体をできるだけ優しく撫で、夜が明けるのを待った。

話をしたのはその晩が最後だった。クリステルは病状悪化のため面会謝絶となり、アウレリアは皇務で城を離れることが多かったためだ。


「嫌われていると思っていました。今は民の前で戦争を否定した私に呆れていると」

「そのようなことはありません。クリステル様の妹でいられることは誉れであるとおっしゃっておりました」

「そうアウレリアが?」

「はい、あの城で人の心を持っているのはクリステル様のみとのことです。我々もその意見に賛成です」


 周囲の人々も微笑んで頷いている。

 愛する妹の想いを聞いたクリステルの体に、歓喜の情が貫いた。それと同時に闘志がふつふつと湧き上がってくる。


「私を信じてくれている人のために。一刻も早く、この国をあるべき姿へ戻さなければなりませんね」


 なんとしても現政権を破壊しなければならない。そうしなければ、アウレリアも魍魎の住まう城に取り込まれてしまうのだ。


「我々は国の軍を相手に戦争をする必要はありません」


 元老院の一人が言った。


「我等の狙いはただ一人にございます。ヴェルガ国軍の長エルフリーデ・ランゲマルク。事実上、この国を牛耳っている張本人でございます」


 クリステルもエルフリーデという女性とは顔を合わせたことがある。


 軍に在籍して数十年、多くの功績を上げたと聞いていた。クリステルの母親よりも年上のはずだが、美しく若い姿だった。容姿だけで言えば二十代の後半といったところ。未成熟な少女を蕾とするならば、蕾が開いた後、艶やかに染まった花弁のような相貌であった。

「不可思議な力を用いて睨むだけで人を殺め、飛来する弾丸を受け止めるなど常人離れした身体能力を有していると聞き及んでおります。だが、真に恐ろしいのは政治家としての資質と野心。恐らくエルフリーデは数年前からヴェルガを乗っ取る計画を企てていたのでしょう」


 何人であれ障害とあれば排除するのがエルフリーデのやり方である。いつしか彼女を恐れる者が言った。魔女エルフリーデ。

 彼女を倒せば戦争は終わる。


「私もエルフリーデのやり方は知っています。その恐ろしさも――エルフリーデを玉座から引き下ろすために、散り散りになった同志達を集めなければなりません。今のままでは彼女に勝てない」

「早急に、そして悟られぬようにでございます。軍人達は容赦がない」

「そう、見つかれば命はない。私もあなた達もです、軍人達は私がヴェルガに戻っていることを把握しているはず。彼らは死ぬはずだった皇女を躍起になって探しているでしょう」

「クリステル様の捜索はこれまでにない規模で行われております。ですがご安心を、いざとなればクリステル様は我らの命に代えても」

「皆さんの気持ちはとても嬉しい。けれどこのままではあなた達も危険です。彼らの捜索をかく乱するため、私は一度この国を離れます。しばらくは難民を装い、ほとぼりが冷めるまでビレに滞在します」

「ビレでございますか?」


 ビレとは桜花とヴェルガとの中継地点として有名な、人口が三千人ほどの島国であった。


「確かにビレならばヴェルガよりは安全」

「急がなければなりません、明朝には出発します」

「承知いたしました。護衛は多いとかえって目を引きます、優秀な数名をクリステル様の側近に」

「感謝します」


 クリステルは席を立って一礼し、自室へと戻った。


 小国であるビレはキャバリアという国の庇護を受けている。レガール大陸の大国がヴェルガとすれば、海を挟んだ先にあるユナ大陸の大国はキャバリア。キャバリアの息がかかるビレで問題を起こすと言うことは、キャバリア国に火を放つことと同義。ヴェルガの軍人と言えど、ビレではおいそれと問題を起こせないのだ。

 その小国であればヴェルガの捜査は及ばない。クリステルがビレを選んだことは極めて自然である。

 しかし、彼女がビレを選んだ理由は身を潜めるためではない。究極の目的はアヤメの救出にある。ビレは桜花国に近い。可能であれば桜花へ密に侵入し、アヤメを救出せんという算段であった。

 この麗しき乙女の心を見抜いた者は、誰もいなかったのである。




 古い木造建ての宿屋。その個室でクリステルは横になっていた。

 弱々しい月明かりが灰色の雲を割って、ベッドに窓枠の形の光を落としている。


「アヤメさん」


 想い人の名を月明かりに向けて囁く。

 闇に包まれる時間は、胸の内が浮き彫りになる。クリステルの心はどうしようもなくアヤメを求めていた。

アヤメの甘い匂いと熱を思い出すと余計に辛くなる。疼いた感情を鎮めるために布団を抱きしめた。

 薄らと目を開け、彼女に触れた手を見る。彼女の赤い舌が触れた唇を触ってみる。ちゅっと唇から音が漏れ、そのまま指をすっと下へ滑らせていく。彼女が触れてくれた体を、指でなぞってみる。

 この手がアヤメのものであったなら、と思うと体の中で何かがチリチリと燃えていき、何かが崩壊していく。

 

「アヤメさん、好き、本当に大好きなんだよ。どうか無事でいて」


 人を愛するということは苦痛を伴うことだと思い知らされる。透明な硝子で作られた宝石のようだと思った。光を浴びれば美しく輝くが、僅かなきっかけでひびが入り、粉と砕けてしまうほどに脆い。

 クリステルは布団をかぶり直し、耳を塞いでうずくまった。深い闇と沈黙を作りだし、何も考えないようにして、やがて訪れるはずの眠りを待った。


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