夢
アヤメの過去編になります。
今日も私はしくしくと泣きながら一人道を歩く。
頭がじんじんと痛む。さすってみると、指先に血がついていた。石をぶつけられた時に切れたのだろう。
母に頼まれて川の水を汲みに行ったら、そこで村の少年たちとはちあわせになった。
化け物が近寄るな、川の水を汚すな、といきり立った彼らは手近な棒切れを手にして襲い掛かって来た。取り囲まれてはまずいと走り出したところで、後ろから石をぶつけられた。
死神アヤメ、モノノケのアヤメ。彼らは私を罵った。
このところ私と親しくした人に立て続けに不幸が起きている。原因は霊猫の祟りで、私がそれを運ぶのだと言われた。私と母は恐れと怒りを孕んだ村人たちに怯えながら、ひっそりと暮らすしかなかった。
家が見えるにつれて私は途方に暮れる。
水を汲んでくるように言われたのに桶は空である。今から引き返すのも待ち伏せが恐ろしくて躊躇われた。途方に暮れていると再び涙が込み上げてきた。
「アヤメ」
振り返るとそこには親しくしてくれる少女、ハルカが立っていた。いつも落ち着いていて、立ち振る舞いも優雅なのは、私より一つ年上だからというだけではない。
さあっと吹き抜けた風が彼女の綺麗な髪をさらっていく。
「ハルカ」
「どうしたの?」
「なんでも、なんでもない」
「なんでもないことないもん、あなた泣いてた」
言葉が詰まる。
名家の生まれである彼女は私のようにぼろきれのような着物を着ていない。歩き方から話し方まで如何なる所作も高貴なそれを感じさせる。化粧とはまた違う輝きを身に帯びているが威張ることもなく、また名家の威厳を発して他者を怯えさせたことは一度もなかった。優しく、誰にでも気遣いができた。
「私は泣いてなんていない、どこかへ行ってくれ」
自分がみすぼらしく思えてつい大きな声を上げた。
「いいわ」
ハルカが手にしていた水桶をひったくる。
「な、なにをするんじゃ」
「待っててね」
走り去る彼女を私はぽかんと見つめていることしかできなかった。
小半時ほどして、ハルカは戻って来た。着物は水と泥まみれ。水桶は満たされている。
「はい」
呆気にとられた私が差し出された桶を受け取れずにいると、彼女は強張らせた体を小さくした。
「は、はやく。重くて、落ちる」
ひっ、と小さな悲鳴を上げた彼女の手から水桶が落ちかけたので、慌てて手にする。
「ふふ、あぶなかった」
「・・・・・・どうして、私に近づくとあなたまで」
「そんなこと気にしないよ。あなたがくれた薬草のおかげで私のお父さんは救われたんだから」
崖から落ちたハルカの父を私と母とで治療したことがあった。打ち所が悪く右手の第一指、第四指が千切れ掛けていた。大黒柱がこれでは商いに支障が出ると嘆いていたが、予後が良かったらしく、今は趣味の絵筆を扱えるまでになったらしい。
「ハルカのおっ父は元気か?」
「うん、よくなった。ありがとう――またね」
ハルカは手を振って去っていった。
「――ありがとう、また」
水桶を手に、家の戸を開けると中で母と村長が向かい合って話している。家に客人とは珍しいと思っていると母に来るように言われる。頭を下げて座すと、村長は私に頼みごとをした。
「このところお山の辺りにどこからか巨大熊が迷い込んだ。よそから来た獣は危険だ。死人が出てからでは遅いので退治することに決めた。アヤメも力を貸してはくれまいか」
私も最近お山に不吉な影を感じていたので合点がいった。
「私は調子のいいことを言いなさるな、と言っていたところです」
母が言う。
「私たちをこれだけ毛嫌いしておきながら、都合のいい時だけ助けよとは虫が良すぎる。それも、まだ十歳のアヤメに危険な頼み事など」
母は私の頭に傷があることに気づき、涙ぐんでしまう。
「とはいえ私たちもこの村の一因なれば、村全体の危機には力を合わせなければならない。アヤメ、ここから先はお前が決めなさい。私はどちらでもかまわない」
急なことで返事に窮していると村長が頭を下げた。
「頼む、そなたのモノノケの力が必要なのだ・・・・・・いや隠さずに言おう、二日前に村の男どもで熊退治を行ったが返り討ちにあった。そこで熊は人の血を覚えたのだ、こうなれば遅かれ早かれ村が襲われるのは目に見えている」
人の血を覚えた熊はそれのみを追い求め、化け物と化すことは母から聞いていた。
村に被害が出ると言われ、一番にハルカの顔が浮かんだ。親しくしてくれる彼女に何かあれば寝覚めが悪い。私は承諾し、明朝に村の男たちと山へ向かうことを約束した。
村長が去った後、母が一振りの刀を私に渡した。
これは祖父が後生大事にしていた刀で、刀工は不明なれどなかなかの業物であるらしい。
家の守り刀として白鞘に収められ、床の間にて横渡の白木の刀掛けに置かれていた。
深夜、私は刀を手に森へ入る。己の五感を研ぎ澄ますため、そして刀の重みに慣れておくためである。
夜の闇の中、刀を振っていると得体のしれない何かがぎしぎしと周囲の木を軋ませて迫ってくるのが分かった。巨大な体は闇そのものだ、闇がそのまま迫っているように思える。闇が動けば、ズズズと森も動く。
やがて長い胴体で私を包むような体制になると闇は動きを止めた。暗闇の中で丸い二つの光が月の如く妖しく光っている。森の気が禍々しく変わっていく。
娘よ
闇は言う。
何をしている? 何を斬るつもりじゃ?
「熊じゃ、辺りに迷い込んだ熊を退治しに行く」
退治か
怒気を孕んだ荒い息遣いが聞こえる。急に寒くなって来た、真冬のように温度が一気に下がった。
人間の頼みを引き受けたのじゃろう? 汚らわしい人間の頼みを。愚かな娘、その先に待つ苦しみを知るがよい。モノノケのお前が人の真似事など・・・・・・
「私はモノノケではない! 人間じゃ!」
ケケケ、と笑って闇は消えた。
翌日、私は村の男達と件の熊を追い詰めた。
熊の毛は鎧よりも厚い。男たちの猟銃でも致命傷は与えられなかった。追い立てられた熊が両足で立ち上がったのはその時だった。
家屋ほどもあろうかという巨大熊だ。山頂に通じる大岩の上で立ち上がった熊に気おされた男たちは、あっと叫んで立ちすくんでしまった。
元は炭鉱で働いている者達である。獣と戦うことに慣れていない。巨大な体と不気味な黒毛、醜怪な表情に気おされて二の足を踏んだのだ。
人の力では敵わない、殺される――という危惧もまた足が止まった要因となった。
私は立ちすくむ男たちを押しのけ、白鞘から刀を抜いた。そして両足立ちで威嚇する巨大熊の正面に立った。
怪しく首をひねり、今にもとびかかろうとした熊が咆哮を放ちつつ、こちらめがけて前のめりになった。
「えいっ!」
その刹那。
私の突き出した刀の先端が、熊の口から頭蓋にかけて突き刺さった。黒毛の獣が咆哮したことで、一瞬、赤く開いた口を正確に射抜いた。
熊はしばしのたうった後、眠るように果てた。
「恐ろしい娘じゃ」
村人の一人が吐き捨てた。
怯えなくてもいいのに、と思う。この力を人にぶつけたことなど一度もないのだから。
熊の臓物や血は貴重とされ、高値で取引されるため、村人たちはこの巨大熊を解体した。貧しい村の住人たちにとって、思わぬ収入源である。
「心臓じゃ! 何より値がつく!」
村人の一人が熊の心臓を手にしたので、私が止めた。
「それは駄目じゃ。心の臓は山の神のもの、自然への敬意を忘れぬため心臓は山へ還す」
「何を言う、これは山のお恵みじゃないか!」
「恵みはもう十分だろう。今あるお恵みに感謝していると山に礼を言わねばならんのじゃ」
私は解体されていく熊を改めて見た。
「この熊を見よ。この大きさ、いずれは山の主か、人語を操るモノノケとなりえたかもしれない。ただの獣ではないのだ、この熊にも敬意を払わねばならない」
私も男も一歩も引かなかった。見かねたハルカが前に出る。
「私はアヤメの言う通りにした方がいいと思う。アヤメもアヤメのお母さんも山のことをよく知ってるし、これまで言われた通りにして間違ったことが起きたことないもん」
名家の娘が言うと、皆もそれ以上は口を出さなくなった。私は熊の心臓を手に山の奥進んだ。心臓をとある木の枝に挟み、穢れを払う儀式を施した。
人も獣も共に他を取り込まねば生きていけない生き物だ。それはこの熊も理解してくれるはず。どうか安らかに眠ってほしい。
熊の肉体は清めた。村では魂を鎮めるための祠を作ってくれている。役目は終えた。
殺生を楽しんでいるわけではない、人と自然とが共存するには敬意が何よりも大切なのだ。
家に帰る途中、ハルカに会った。私が山から下りてくるのを待ってくれていたらしい。
「アヤメは死神なんかじゃない、私たちをいつも助けてくれるんだから」
母以外の人に抱きしめられたのはこの時が初めてだった。
その夜のことである。
血相を変えた村長が家にやって来た。
「祟りだ! 熊の祟りだ!」
何事か察した私は刀を手に外へ出る。烈風が吹きすさんでいる。
「アヤメ、これは黒風だ」
母が言う。
黒風とは強い怨みをもって死した者が、現世を去る前に吹き荒れるとされる風である。
風の中に血の匂いがある。臓物の匂いと悲鳴が聞こえる。この狂気の出どころは。
「ハルカの家じゃ!」
私は走った。
母の制止は風の中に消えた。
道の途中で幾人もの死に絶えた者達を見た。皆一様に腹を裂かれ、臓物が抜かれている。
「なぜ、どうしてこんなことにっ!」
ハルカの家にたどり着くと、村人たちが銃を構えながら震えていた。
「化け物が、中に化け物がいる。皆そいつにやられた」
と、物狂わし気に叫ぶ。
「ここにいろ、誰も入るな」
私は家に足を踏み入れる。中は鉄錆の匂いで充満している。
「ハルカ、どこじゃ」
刀を抜き、薄暗い家をさまようとやがて床の間に着いた。
そこには子供を抱いたハルカが立っていた。
「ハルカ、よかっ――」
言い澱む。
違う。
うまく言えないが、ハルカではなかった。
「ねえ、アヤメ。私の子供を抱いてくれないかしら」
ハルカはまだ十一歳。子供などいるはずもなかった。
ハルカの手から飛び降りた子供が小走りで近づいてきたため、まずこれを一振りのもと斬り倒した。
ぐわん、と視界が歪む。
「呪い!?」
子供を斬ったことで呪いを受けた。
斬られた子供は闇の中にすぅっと消えていく。
まやかしの力に意識を失いそうになる。
「私にこんなものは効かん!」
凛とした声を発し、両足でしっかり立って見せた。この威嚇が未知の敵に驚異を与えることを祈る。
「逃げるぞハルカ、この家から出なければいけない」
ハルカはにかっと薄気味悪く笑う。見ると彼女の足元に、人の臓物が並べられている。
「私とおいでアヤメ、ずっとそばにいてあげる。お友達のまま永遠に一緒、この村の人間を一緒に殺そう? 恨んでたでしょ、我慢してたんでしょ。もういいのよ?」
これはもうハルカではない。ハルカがこのようなことを言うはずがない。
「どうしたの? 私に傍にいてほしくないの? ずっとよ、永遠に、ずっと、傍に、ずっと」
私の心を読み取り、私の望むハルカを模して作り上げられた化け物。隙をついて私を殺すつもりか。いや、私だけではない。放っておけば、このモノノケは多くの人間を死へ誘う。
「ハルカをどこへやった! ハルカを返せ!」
「アヤ・・・アヤメ」
私の言葉に、苦悶の表情を浮かべるハルカ。一瞬だけ、私の知るハルカに戻った。
「ハルカ!? そのまま意識を強くもて! モノノケなんかに負けるな!」
「だめ、もう駄目・・・これ以上・・・」
「大丈夫じゃ! ハルカは強い娘じゃ! 追い払える!」
「もう、殺したくない・・・して・・・」
「ハルカ! 私を見ろ! 助けてやる!」
「ころ、して・・・して・・・殺して」
「お前と話せて嬉しかった! 私に優しくしてくれて嬉しかったんじゃ! お前だけは――」
「殺して、アヤメ、私を」
「駄目だ! ハルカ!」
「ころ・・・殺す・・・・・・お前を殺してやる!」
憤怒の形相に変わったハルカが飛びかかって来た。私を噛み砕こうと広げた口には熊の牙が生えている。薄暗い電灯に照らされた彼女の影は、昼間殺した熊のものだった。
『アヤメは死神なんかじゃない、私たちをいつも助けてくれるんだから』
彼女の言葉が蘇る。
「ハルカ、お前を助ける」
殺すのではない、助けなければならない。
峰打ちで意識を奪えば、或いは。そう思った。
ただ、モノノケに憑かれたハルカは私の力と伯仲するまでになっていた。咆哮して迫る彼女のその気迫たるや、命を奪われると判断するに十分すぎるものがあった。
「あっ!?」
感覚を失った。
私は刀で友の首を跳ね飛ばしていた。命の危機を感じ取った私の剣は、自然とそのように動いていたのだ。
転がった首の先に、山に置いてきたはずの熊の心臓があった。
斬り落としたハルカの首は私を見て笑うと、そのまま泥になってしまった。
まやかしかと思い家中を探したが、ハルカはいなかった。
私は初めて人を傷つけた。友を斬り殺した。
一家を襲った惨劇で唯一生き残ったのはハルカの父。熊の心臓は万病に効くと信じ込んだ彼は、人知れず山から持ち帰ったのだと言う。自分の指を完全に治したかったから、だそうだ。
熊の魂を供養するために作られた石の祠は、丁度人間の首が落とされたように真っ二つになっていたと聞く。
私は泣いた。
夜の森で一人、言うことを聞かなかった右手をこれでもかと岩に叩きつけた。
血と、涙が流れるのを黙って見ていた。
私は誰も救えない、友でさえ救うことができない。
すると――
娘よ、人間を気取るでない
巨大な闇が迫って来た。
お前は我が牙、我が爪の一部じゃ。汚らわしい人間を滅ぼすためのな
「うるさい! あっちへいってくれ!」
わかったろう? 人間を助けようなどと思うな。お前の色が穢れるし、何よりお前自身が苦しむことになる
「やだっ! 聞きたくない!」
お前は儂の後釜じゃアヤメ
「なんでじゃ」
お前は死の運び手となる。強欲な人間どもを喰い殺せ!
「なんでお前が、私のおっ父なんじゃ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
薄明りの中、私は目を覚ます。
隣には静かな寝息を立てているクリステル様がいる。
まだはっきりとしない意識の中で、遠い日の夢を思い出す。このような夢を見てしまうなど、気の引き締め方が足りていない。
この寒さではあるが水垢離でもしようかとベッドを出る。と、クリステル様が私の手を掴んだ。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「いいえ。まだ夜明け前だけど、どうしたの?」
「嫌な夢を見ました。気を保つために水でも浴びようかと」
「まあ、大変」
クリステル様が手を引いて私をベッドに戻す。
「あの、これは?」
「嫌な夢を見た時は良い夢を見て忘れましょう」
抱きしめられ、頭を撫でられる。
「もう少し私といて」
「はい」
彼女を抱きしめる。
もう昔日の私ではない。この方だけは何としても守り抜かねばならないのだ。
温かい光に包み込まれていくような心地よい感覚に抱かれながら、私は再び目を閉じた。




