雪の国での彼女たち
再びアヤメとクリステル視点に戻ります。
私は薄暗い一室でクリステル様の帰りを待っていた。
座り心地のよさそうな椅子を勧められたが、とても腰を下ろす気にはなれない。大切な人が気がかりで仕方ない。
「ふぅ」
何度目かのため息をついて、時計に目をやる。先ほど時計に目を向けてからまだ十分も経っていない。
やるせなさを誤魔化すため、窓から外を見た。
明け方までちらほらと振っていた雪は上がったが、空は未だ薄暗い雲で覆われている。風の音もなく、外は静かだ。
雪国であるスネチカに生き物の気配はない。雪が木々や建物に覆いかぶさり、生命の輝きや時間までも制止させてしまっている。
時折鉄を打ち合うような音が響くだけの、無機質な静寂に包まれた部屋。コォン、コォン、コォン、という音はオイルヒーターという暖房器具が動けば鳴るらしい。気が立っているせいだろうか。どうにも好きになれない。
ふと、静寂にかすかな人の足音が混じる。
上質な絨毯が敷かれた床を、ゆっくりと歩いてくる。踵が鳴らす音が強まり、嗅ぎ慣れた香りがうっすらと漂う。
足音は私と廊下を隔てたドアの前で止まる。
ノックの音、これほどまでに落ち着く音はない。私はほっと息を吐き、少し間をおいてからドアを開ける。
美しい彼女は少し息を切らしながら立っていた。私の顔を見て安堵の息を漏らし、笑顔になる。
「アヤメさん」
クリステル様の笑顔を見ると、体の力が抜けてしまった。
「お嬢様」
「予定より長引いてしまいました、でも実りある会合でしたよ」
熱を帯びた頬が桜色に染まっている。私のために急いで戻ってきてくれたのだ。
クリステル様は息を切らしながら火照った頬を手で仰いだ。そして後方に控える二人の護衛に下がるよう言って、するりと私の部屋に入った。
「お嬢様、応接室からここまで走ってきたのですか?」
後ろ手にドアを閉めて尋ねると、クリステル様はむっと両手に腰を当てた。
「もう、アヤメさん」
「あっ・・・・・・失礼しました、クリステル様」
彼女をクリステル様と呼ぶことは禁じられていた。往来で『クリステル様』と呼べば目を引く可能性がある。皇女と知れたら危険が迫る。
「二人の時はそう呼んでくれる約束だよ?」
「すみませんつい」
「なら、もう一回」
「クリステル様」
「ふふ、アヤメさん」
クリステル様は微笑むと、体を寄せてきて私の胸に顔をうずめた。突然であったから、体が硬くなってしまう。鼻先に迫った甘美な香り。吐息が胸元にかかって、背筋がぞくぞくと波打つ。こそばゆい。
「走ってきたよ、あなたに早く会いたかったから。ただいま、アヤメさん」
「・・・・・・」
「アヤメさん?」
私は我に返る。
繊細な肌と美麗な香りに艶めかしさを覚えたため、動転して動けなくなってしまったのだ。
目の前には白く、そして小さな、優しい顔がある。
「おかえりなさい、クリステル様」
柔肌を抱きしめて言う。
そうして私たちは唇を重ねる。
私の初恋の少女、ヴェルガ国皇女クリステル・シェファー様。彼女は命を狙われている。
数日前、ヴェルガ国は皇女クリステルが行方不明であると全世界に公表した。ヴェルガ国を仕切っている連中の本当の狙いは皇女の暗殺。国に連れ戻されればお終りだ。
それだけではない。ヴェルガ国皇女を誘拐し、身代金を要求しようという連中はそこら中で目を光らせているはず。
そうならないために、皆がクリステル様のことを『お嬢様』と呼んでいる。しかし、彼女は私に名前で呼ぶことをせがむ。
ひとしきり唇を合わせ終えた後、私たちは顔を離す。零れた唾液が線を引いて未だ私たちを繋いでくれている。
「好きだよ」
クリステル様がいると、くすんでいた景色が明るみを帯びていく。彼女と過ごす時間が至福の極みだ。
「私もクリステル様が好きです、何より大切に思っております。しかし」
幾つもの言葉を交わし、あまつさえ肌まで重ねた間柄。触れ合ったからこそ、以前にも増して愛の感情は膨れ上がったと言える。
当然のように私が彼女を求める行為は激化する。悪化と言い換えても良い。
愛とは恐ろしいものであると知る。
愛する者へ向ける想いは澄み切っていたはずであるが、相手への気持ちが強くなるにつれて清らかな感情はさっと剥ぎ取られたようだ。
美しいクリステル様への思いに全霊を尽くすほど、誰にも渡したくないなどと、独占欲も増していく一方だ。
この辺りで一つ自分に戒めを課さなければならないと思った。
「うん?」
「皇女であるクリステル様は皆にも等しく愛を向けなければいけませんから、私にばかり捕らわれてはいけないと思うのです」
可愛くない言い方をしてしまう。しかしこうしてクリステル様と私自身に釘を刺しておかなければならない。国の命運を左右するクリステル様を独り占めにはできないのだから。
「どうしたの突然」
あどけない表情であったクリステル様は、ふと笑みを解いてやや不安気味に尋ねる。
口をつぐんだ私の頬を両手で包み込み、額をこつんと合わせた。
「約束だよ、何かあったら私に言ってくれるって。ね?」
――何か迷った時や不安な時はなんでも私に話してね。
そういう約束だった。
「最近の私はおかしいのです。あなたのことばかり考えて、独占したいなどという欲が・・・・・・自分が恥ずかしい、こうも自制が利かないなんて。私は弱い人間です」
「弱いだなんて・・・・・・一人で悩んでいたのね、苦しかったね」
クリステル様は私の頭を撫で、微笑みながら尋ねた。
「私がアヤメさんのことをどう思っているかわかる?」
「惧れながら、私と同じではないかと考えています」
「なるほど。皇女が一兵士に恋するあまりヴェルガを取り戻す活動をないがしろにしてしまうかもしれない、と不安になったのね」
「はい」
私の言葉に頷いたクリステル様は、思いついたように衣装箪笥へと駆けて行った。
「クリステル様?」
意図を掴みかねていると、彼女はおもむろに纏っていたドレスを脱ぎ始める。美しい曲線を描いた背中が見えた時、どきっと胸が跳ね、慌てて後ろを向く。
視界は遮ったが絹擦れの音と微かな息遣いが耳に届いてしまう。たったそれだけのことで鼓動は勢いを増してしまうのだった。
「アヤメさん、こっちを向いて」
しばらくしてクリステル様が戻って来た。振り向くとそこには着替え終わった彼女がいた。
純白の白いブラウス、首元には赤い紐のリボン。ひざ丈まである真赭のフレアスカートを纏っている。
「ほら、皇女である時の衣は脱いだわ」
「は、はい」
「皇女の衣を纏っている時は皆に愛を向けるけど、今はあなたにだけ愛を向けるの」
頬を染めて微笑む。
「私はね、大切な人を想える人は強くて優しい人だと思う。愛する者同士身を寄せ合うことは決して弱いことなんかじゃないわ」
「クリステル様」
「私はあなたの愛も、皇女としての責務も全て受け止める。どちらも決してないがしろにはしない」
そう言った彼女の瞳には無限の愛情が星の如く輝いていた。
「ごめんね、皇女が恋人だと色々と考えさせちゃうよね。アヤメさんは真面目な人だから、私のことを考えて助言してくれたんだね」
ありがとう、と言って私の手を取った。
「申し訳ありません、無礼な口を」
「そんなことない、改めて覚悟が決まったわ――というか、二人の時は敬語でなくていいと言ったのに」
「それはできません」
「真面目ね」
「線引きは必要です。クリステル様は皆の皇女でありますから」
「でも、今のクリステルはあなたのものよ」
そう言って私の手に唇で触れる。




