二人の夜
白い月が出ていた。
ぼんやりと夜の闇の中に浮かんでいる。
部屋は静かだ。自分の呼吸さえも聞こえない。
あの後、クリステル様と別れてシャワーを浴びた。熱いお湯が滝のように落ちてきて、私の体に残る甘い匂いを流していった。
体を清めればすっきりするはずなのに、彼女との繋がりまで落ちていくようで嫌だった。
会いたい。先ほどまであんなに触れ合ったのに、もうこんなにも。
ほっ、と息づく。
夕刻まで寝ていたせいか、眠気はなかなか訪れなかった。漂う夜気の中、ただ時間が過ぎていくのを感じながら目を閉じている。目を開けたら、クリステル様の部屋へ行く覚悟が決まりそうだから、目を閉じる。
クリステル様も疲れているだろう。こんな時間に会いに行くのは迷惑だ。今日は眠ろう、このまま目を閉じていればいつかは眠れる。
ひたひたひた、と水辺を歩くような足音が聞こえてきた。心臓が跳ねる。
先ほどと同じように、部屋の壁が音を立てて押し出される。
動悸を鎮めるため、手のひらを胸に当てる。
ひたひた、と足音が近づいてくる。
「アヤメさん、寝ちゃった?」
言葉が出なかった。
起きています、とたった一言がなぜか出てこない。心臓がうるさい。
「よいしょ」
ぎぃ、とベッドが沈み、彼女の金糸のような髪が垂れて私の頬に触れる。
「あ、起きてるでしょ。耳まで真っ赤だよ」
くすくすと笑い声が聞こえる。
「クリステル様」
目を開けると、愛しい人の顔が目の前にあった。慌てて枕に顔をうずめる。
振り返れない、もし振り返ったら。
「どうしたの?」
鼻が触れ合うほど距離が近かった。陶器のように白い肌は月よりも輝き、美しい顔は女神にも勝る。
「無礼をお許しください。その、は、恥ずかしくて」
「あら、あんなに触れ合ったのに」
「それはそうなのですが、クリステル様があまりに――綺麗で」
「え。あ、ありがとう」
クリステル様の顔からぼふん、と湯気が立ち上る音が聞こえた気がした。
またしても私は思わず本音を漏らしてしまった。それを聞いて、きっと彼女も顔を赤くしているのだ。
「一緒に寝よう?」
クリステル様がベッドに体を沈めようとする。
「いけませんっ、もしこのような所を護衛たちに見られでもしたら」
「それこそ、今更だよ。私はもうこの部屋に入ってしまったもの」
「しかし――」
白い手が私の首筋に巻き付いたかと思えば、彼女は私の背中に胸を押し付けてきた。
「ねえねえ、アヤメさん。こっちを向いて」
「で、できません、無理です」
「ああ、見てくれないのね。あなたが見てくれないと、夜の寒さが染みて凍えてしまうわ」
「現在の気温二十度。ここは南国ですから、寝冷えはしないかと」
「まあ、なんて浪漫のない。アヤメさんは詩集とか読んだことある?」
「兵法書なら」
背中に柔らかい胸の感触と、うなじに甘い吐息がかかる。
「綺麗な髪、アヤメさんの髪って素敵よ。リボンで結ってる髪型も好きだけど、ありのまま下ろしているのもいいね」
「黒い髪は、影を纏っているようです。私はクリステル様のような金色の髪の方が――」
「ううん、黒い髪は素敵。影を纏っているだなんて言わないで」
「そんなに良いものでしょうか」
「うん、食べちゃいたいくらい。あむっ」
クリステル様が私の髪をついばむ。
驚いた私は反射的に寝返りを打ち、そして――
「あ、やっとこっちを見てくれた」
クリステル様。
声が出なかった。
金縛りにあったように体が動かない。微笑むクリステル様、その瞳には私が映っている。
「私が一番ね」
「は?」
「もうすぐ日付が変わるの。日が変われば、今日最初にあなたに触れたのは私。だから私が一番なの」
甘える声が、固くなっていた私の体を柔らかくさせる。
可愛い。愛しすぎる。
「それなら、私も一番ですね」
私はクリステル様の手を取って、指を絡ませた。
「今日最初にクリステル様に触れることができた幸せ者」
「うふふ、そうよ。アヤメさんと私は幸せ者同士よ」
私たちはくすくすと微笑み合った。
とても貴重な時間だ。もっと素直にならなければ。
「実は先ほどまで会いくてしかたなかったのです。そしたらクリステル様が来てくれて、想いが通じたようで。なにやら気恥ずかしくて、固まってしまいました」
想いを伝えたら、涙が出た。
クリステル様がコツンと額を合わせる。
「アヤメさん可愛い、涙もろいんだね」
「嬉しいからです。こんなに私のことを好きでいてくれるなんて」
「アヤメさんが思っている以上かも、この気持ちは誰にも負けないもの」
胸が熱くなる。
彼女の一言一言が私の心を打つ。
「ねえ、アヤメさん果物は好き?」
「はい、甘いものは好きです。一度だけブドウなるものを食したことがありますが、あれはとても甘くておいしかった」
「ブドウ? そういえばビレの市場にもあったような」
「あのような高価なものが市場に?」
「ビレは貿易で栄えてから、色々なものが市場に並ぶの。明日買ってこようかな、一緒に食べよう?」
「いえ、そんな」
「アヤメさんへのお礼と、また会えたお祝い。ね?」
つないだ指にぎゅっと力を込めながら、彼女は無邪気に笑う。だから私も微笑む。
「アヤメさんの笑顔見ていると、落ち着くわ」
「私もですよ」
「ふふ、自分の笑顔で落ち着けるなんてアヤメさん可愛い」
「いえ、そうではなくて。クリステル様の笑顔を見ていると」
「あ――ああ、そうよね。恥ずかしい、勘違いしてしまったわ」
ぱっちりした目を見開いてあたふたしている。
「うふっ、あはは」
「あ、笑ったわね」
「申し訳ありません、でも――ふふふ」
「あはは、アヤメさんが笑ってくれたならいいかな」
「クリステル様は、何か好きなものは?」
「果物も好きだけど、チョコレートやハチミツなんて好きかな」
「ハチミツですか、かしこまりました。明朝、山へ向かいます」
「え!? いいよ、無理しないで。体が万全じゃないのに山へ行くなんて危ないよ」
「この程度、問題ありません」
「問題あるよ、獣とか出たらどうするの」
「ご安心を、桜花では蜂の巣を取り合って何回か熊と戦ったことがありましたが、勝率は十割でしたので自信があります」
「やめてやめて、熊がかわいそうだわ」
慌てるクリステル様に私はぷっと吹き出す。
「冗談です」
つい冗談を言う。
彼女はしばし目をぱちくりさせて、やがてむぅっと頬を膨らませた。
「・・・・・・私をからかってるのね」
「からかうなど、恐れ多いです」
「そういう悪い子はこうだわ」
ぎゅうっと、クリステル様が抱き着いてくる。私も甘んじてそれを受け入れる。
抱きしめ合いながら、私たちはとりとめのない会話を続けた。私は母が子にするように、優しくクリステル様の背中を撫でた。やがてクリステル様が静かな寝息を立て始めた。
安らかな顔だった。この先、彼女には辛い運命が待ち受けているかもしれない。それでも、私の前ではこうして心を落ち着けてられるようにしてあげたい。
クリステル様の唇にそっと口づけをすると、私も目を閉じた。
彼女の寝息は母なる海のさざ波のようで、聞いていると心が落ち着く。私はいつのまにか眠って、彼女の夢を見た。
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