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皇女の猫【抑制版】  作者: WAKA
アヤメ篇
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夜明け前の出来事

この部屋にきてどれほどの時間がたったのか。一時間かもしれないし、もっとかもしれない。時間の感覚が定かでないほど呆けていた。

 

鋭敏な感覚を有するルリがぼんやりしてしまうのは、アヤメを前にした時のみであった。


「アヤメちゃん」


 ルリは眠るアヤメの手を握った。


「嘘ついてごめんね」


 アヤメは規則正しい寝息を立てるのみである。

 ルリはその寝息が安らかであることに安堵した。投薬され続けたアヤメの体調は芳しくなかったが、休息することで回復に向かっているらしい。


「よかった、元気になってくれるみたいでよかったよ」


 もう一度名前を呼んでほしかったが、この様子では起きそうもなかった。


「解放して疲れちゃったんだね」


 ルリは眠るアヤメの手を自らの頬に当てた。

 温かい。

 美しい想い人の手は温かく、頬を通して脈拍も伝わってくる。


「大好き、アヤメちゃん大好き」


 好きな人がいる、一緒にいて微笑んでくれる、それだけで十分であったはずなのに。いったい、いつから心に歪みが生まれてしまったのだろう。

 アヤメに頬を打たれた時、ルリは悲しみに暮れる想い人の顔を見た。信頼が崩れ、それがただひたすらに悲しい、といったふうだった。


『お前を叩きたいわけがないだろう』と言って、きっと、口を結んだ。


「アヤメちゃん勝手なことばっかりして本当にごめん、ごめんなさい」


 アヤメの悲しむ顔を見た時、ルリの心にずきりと衝撃が走った。

 あんなにも辛そうなアヤメは初めて見た。

皇女を殺し、アヤメの苦しむ姿が見たかったなどと、なんと愚かな考えを持っていたのだろう。好きな人の悲壮を垣間見た時、我が身を裂かれる思いだった。こんなものが見たかったわけではない。


いったい、何をしようとしたのか。

アヤメが消えることを恐れた。

それゆえに強烈な欲望が生まれ、心に鬼を宿してしまった。好き勝手に暴れ、その代償はなんであったのか。過去の自分を見つめると、ただ深い反省の念がこみ上げてくる。


「あたし、アヤメちゃんのために頑張るから。いい子になるからさ・・・・・・そしたら今度は海、ちゃんと連れてってね」


 アヤメの首筋、その白い肌に引き寄せられるように、ルリはそっと口づけをした。


「んっ」


 アヤメの口から吐息が漏れる。


「あは、くすぐったがりなんだから。じゃあ、行ってくる」


 ルリはアヤメに布団をかけなおし、出立の準備を整えると足早に部屋を去った。



 昨晩、アヤメが倒れたまま目を覚まさなかったため、ルリ達はクリステルの屋敷に泊めてもらっていたのだ。


 ルリは自らが精製した薬をクリステルとピアに与えた。クリステルの侍女であるピアはことさらにルリを警戒していたが、彼女の薬がクリステルの肌の傷を癒やしていくのを見てから、いくらか心を緩めた。傷が癒えたクリステルとピアは、ルリと共に倒れた者の看病を夜通し続けた。その甲斐あって、毒煙を吸い込んだ者から一人の死者も出なかった。


 ルリは必死に看病を続けるクリステルを見ていた。

 皇女が兵隊の看病をするなど信じられない。世界中のどこを探しても、誠実で慈しみのある皇女は彼女だけなのではないだろうか。アヤメが護りたいと言ったのにも納得がいった。


 アヤメはもちろんであるが、この皇女は生きるべき人であると心得た。


 世界は混乱の最中にあるが、あの慈しみを持った皇女であれば、魑魅魍魎を心に潜める政権者達を抑えることができるかもしれない。そうなれば戦争は終わり、平和な世の中がやってくる。かつて母が望んだような世界がやってくるのだ。




 明け方のことである。ルリは一人静かに屋敷を出た。


 未だ日の光は木々に阻まれて届かず、草花さえも息を潜め、ゆったりとした冷気が漂っていた。

西の方で沈みかけた月が無機物みたいな色をしている。白くすれていて、ところどころ欠けていて、浜辺に打ち上げられた貝の死骸と一緒だ。この潮臭い国ともお別れ、ルリがそう決意したとき。


「行ってしまうのですか?」


 いつの間に屋敷を出たクリステルが、ルリの背後に立っていた。


「あーごめんね、起こしちゃった?」

「ずっと起きていました。窓からルリさんが出ていくのが見えたものですから・・・・・・これからどこへ、行く当ては?」

「桜花国だよ。あたし任務でここに来てるから、とりあえず報告に戻らないと。このままじゃあたしの捜索隊が出されちゃうからね」


 ルリは背後のクリステルへ向き直る。

 なにやら寂しそうなクリステルは、俯いてしまっている。


 だからなぜ暗殺者の私にまでそのような愛を向けるのだ、とルリは思う。


「任務失敗。皇女は発見できず、アヤメちゃんは薬の副作用で死亡ってことにしとくから・・・・・・ごめんねお姉ちゃん、痛かったよね」


 クリステルは首を振った。


「いいえ、もういいのです」

「優しいね、許されちゃうと償うこともできないよ」

「私にしたことを悔やんで、心の重荷にしてほしくないのです。戦争があって、あなたはもう十分に苦しんだはずです」

「あたしわかってたよ、戦争を起こしたのはお姉ちゃんじゃないって。でも納得できなくて、あんなことして。お姉ちゃんこそ重荷を降ろしてね」

「ありがとう。それでも私は皇女ですから、この重荷だけは背負わないといけません」


 この人は優しい。全ての人の不幸を我がことのように受け止めれば、悲しみも増してしまうのに。それなのにクリステルは。

どれほどの覚悟で、この人は立っているのだろう。思わず涙が滲むほど、荘厳な覚悟であった。

 ルリはたまらずに駆け寄り、クリステルに抱き着いた。


「あたしが・・・あたしがなんとかする。お姉ちゃんが少しでも楽になるように、なんとかするから」

「ルリさん」


 クリステルは驚いて一瞬だけ身を固くしたが、すぐにルリを抱きしめた。

 ルリはクリステルの体温を感じた。

温かい。アヤメもクリステルも。


「何かあったら飛んでくるから。お姉ちゃんたちを襲う人はあたしが許さない」

「うん、ありがとう――本当に私は人に恵まれています」


すがるように抱きしめ合い、体温を感じながら、二人はそれぞれの優しさに触れ合った。この人を殺めずにいて、本当によかったとルリは思った。


「わかっちゃったな、アヤメちゃんの気持ち」

「アヤメさんですか?」

「うん・・・・・・そうそうアヤメちゃんね、お姉ちゃんのこと好きすぎ」


 それを聞いたクリステルがあからさまに顔を赤らめる。

 なんともういういしい反応にルリは楽しくなった。


「ビレに来るまでの間、アヤメちゃんにヴェルガの皇女ってどんな人なのって聞いたの。そしたらずっとお姉ちゃんの話ばっかり。優しいとか美しいとか」

「え、え、そ、そんな」

「もうほんと嫉妬しちゃうくらいにね、大好きみたいだよ」

「ル、ルリさん。もうそのあたりで、恥ずかしいです。恥ずかしい」


 ヴェルガの皇女は想い人の気持ちに触れて風船のように萎んでしまった。

 可愛いなこの人、とルリは微笑んだ。


「じゃあ、あたし行くね。クリステルさんアヤメちゃんをよろしく」

「待ってください、私はあなたに――」


 何事か言いかけたクリステルに、ルリは黙って首を振る。


「・・・・・・ありがとう」


 ルリが小さく言う。

 常人を凌ぐ跳躍で、ルリはその場を去った。


「ルリさん」


 空が明るみを帯び始める。東から上る日が雲を裂き、いくつもの光の柱が大地へ伸び始めていた。


 どうか、どうか無事でいてください。


 クリステルはルリが去った後も、いつまでもその場で祈り続けていた。


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