遠い人
ルリの意識が不安定になったため、クリステルを拘束していた根が土に還っていった。
クリステルがぐったりと地面に崩れた。
「お嬢様!」
顔を上げると屋敷からピアが走ってくるのが見えた。
恐らく同じようにピアの拘束も解けたのだと察する。走れるくらいだから、大けがをしたわけではないだろう。クリステルはほっと息をついた。
ピアは肌を露出している主人に驚いたが、すぐに纏っていた外套をクリステルに羽織らせた。
「ああ、お嬢様お怪我を!」
「うん、大丈夫。大丈夫だから。それよりあなたは平気?」
「私のことなどお構いなく。ご無理をされてはいけません。大丈夫です、必ず私が治して――」
ピアが突然、一点を見つめて黙り込んだので、クリステルは彼女の視線の先を追った。そこには魂が抜けたようにがっくりとうなだれたルリの姿があった。
「よくもお嬢様を!」
ピアは懐中から短剣を取り出した。
クリステルが制止するのも聞かず、ピアはルリの所まで駆け寄ると力いっぱい蹴飛ばした。糸の切れた人形のようだったルリは、何の抵抗もなく地に顔をうずめる。
「なに、あたしを殺すの?」
「当たり前です! お嬢様に手を出してただで済むと思わないでください!」
「そっか、殺してくれるのか。いいよ、とっととやって」
「お嬢様に傷をつけた報いを!」
ピアの短剣が振り下ろされようとした時、その刃を止めた指があった。
「お、お嬢様!?」
クリステルが背後からピアを抱きしめ、片方の手で振り上げられた短剣を包み込んでいた。指からは血がしたたり落ちている。
「ピア、落ち着いて。剣を下ろしなさい」
「な、なんということを!?」
ピアは慌てて短剣を離して主人の手を診ようとしたが、皇女は無言で首を振った。
「軽率なことをしてはいけません」
「しかし、こいつはお嬢様を」
「それでもです、怒りに身を任せるのでは思考停止です。死んだ人間は二度と生き返ることができません」
クリステルは地面に膝を立て、力の抜けたルリをそっと抱き起こした。
「この方は私たちヴェルガ人が起こした戦火のあおりを受け、辛い思いをされたのです」
「それはお嬢様のせいでは――すべてエルフリーデが起こしたことではありませんか」
「ヴェルガが世界に傷跡を残したことに変わりはありません。私はその国の皇女です」
ピアは何も言わず、力なく立ち尽くした。
ルリはクリステルを引き離そうとするが、クリステルは頑として離れなかった。
「意味わかんない、あたしのこと恐いんじゃないの?」
「恐いですよ」
「だったら」
「わからない、私にもわかりませんが――あなたは人を愛した。それ故の行動だったのでしょう?――人を愛するという感情の源は優しさだから。あなたは、優しい人だと思うから」
ルリは思いがけない言葉に口をつぐんだ。
優しい人だ、などとアヤメにすら言われたことがない。
自分より身分が上の人に、こんなにも優しく抱きしめてもらったこともない。
この皇女は一体なんなのだ、とルリは混乱する。暗殺者を救おうとする標的など聞いたことがない。
耳をすませばクリステルの鼓動が聞こえる。故郷で流れていた小川のせせらぎのようで、聞いていると心が落ち着く。
あんな目に遭わせたのに、慈しみを失っていない。こうも慈愛の溢れる瞳を向けられたのはいつぶりだろう。
クリステルの抱擁はアヤメのものとどこか違う。胸に浮かぶ温かい安らぎはかつての――
『賢くて優しくて、私の自慢の娘だわ。世界一の娘よ』
唐突に母の言葉が蘇る。
そうだ。人を傷つけるなと母に言われたのに、その約束すら守れていない。
アヤメにも嫌われてしまった。それはそうだ。優しい少女を身勝手な理由で殺そうとしたのだから。自分が心底惨めで、情けなく思えてくる。
「意味わかんない、もうわかんない」
クリステルはルリの頭をそっと撫でた。
「・・・・・・お母さん、あっ!?」
思わず呟いてしまった。
ルリは驚愕し、己の失態を恥じた。
「お母さまのことを思い出しているのですか?」
クリステルは優しく微笑んで、ルリを抱く腕に力を込めた。そして母が子を愛でるような手つきで頭を撫で続けた。
ルリはクリステルの胸に顔をうずめて、背中に手をまわした。
「お母さん、あたしを見たらなんて言うだろ。今はもうわかんない」
「あなたが笑顔で過ごしていれば、お母さまも幸せなはずですよ」
「会いたいなぁ――お母さんに」
表情を歪めたルリの瞳に涙が溢れた。
「あたしのお母さん――優しい人だったんだもん。大好きだったんだもん! でもあたしに力がなかったから連れていかれちゃった。いなくなっちゃったよぅ」
次々に溢れる涙。母のことを思うと止まらなかった。
「もう一人ぼっちはいや、寂しいのは嫌だ。あたしを置いていかないで」
「うん、うん」
クリステルは泣きじゃくるルリの頭をいつまでも撫で続けていた。