エピローグ
桜花国 宮殿
宮殿に設けたルリの部屋。その扉を天姫が叩いていた。
「おいルリ出てこい、いつまでふさぎ込んでおる」
呼びかけても返事もしない。この数週間、ずっとこの状態であった。
「まったく傷はとうに癒えておろうに」
天姫は諦めて扉の前から立ち去った。
体の傷は癒えたが、心の傷はまだ駄目らしい。
桜花はもうすぐ春を迎える。今日も素晴らしい日和であるが、ルリの心はいつになったら晴れ渡るのか。
腕組をして、額の眉を寄せた天姫が宮殿の廊下を歩いていると、前から巫女がやってきた。手には食事を乗せた盆があった。
「あ、天姫様。今日もルリのところですか?」
「おお、ぬしか。それはルリの飯かの」
「ええ」
「すまん、苦労かけるの」
「いいえ、天姫様一人分より、二人分の方がかえって楽です。それにもう慣れてしまいました」
「真冬の水垢離といい、飯炊きといい。ぬし、順応早くないかの」
「慣れって大切ですよ。いい意味で」
「まあの。で、ルリは飯を食っているか?」
「はい。初めは食べてくれませんでしたが、最近になってやっと」
「そうか――まあ飯を食っているのならよい」
「ふふ、引きこもりの天姫様が引きこもりのルリの心配って面白いですね」
「やかましいわ」
「そういえば天姫様」
天姫が通り過ぎようとしたところで、巫女が再び声をかけた。
「あの日の夜、見ているだけと言ったのに、一瞬だけどこへ行かれたのです?」
「ん、ああ。あの夜か。ちょっとしたお節介じゃ」
「お節介ですか?」
「まあの・・・・・・ほれ、早く持っていってやれ。飯が冷める。ぬしが行けば出てくるかもしれんしの」
天姫はカカ、と笑った。
天姫の予想と違い、ルリは部屋から出てこなかった。桜の花びらが咲いて散っても、夏の強い陽射しが終わり、秋風が吹きはじめても、粉雪が降っても。
毎日を鬱屈として過ごし、時たま思い出したように涙が溢れた。全身から覇気を吸いとられたようなルリは、影のように存在を薄れさせ、日々を過ごし続けた。
また大切な人を失ってしまった。その喪失感が、ずっとルリの心を締め付ける。
誰の慰めも、耳に届くことはなかった。
反乱から数年後
桜花とヴェルガとの戦争や、ヴェルガで起きた内乱はようやく世間からなりを潜め始めていた。
ヴェルガはこれまでと打って変わり、国際社会が称賛するほどの名誉ある地位を得た。アウレリアを中心にして民主主義へと変わったことで、帝国制では叶わなかった政策が次々と実現した。その多くが他国を援助するものであり、今や誰もが認める親愛なる国となった。
アウレリアが政界から姿を消したのと同時期に、ヴェルガの守護者メルリスとして勤めていたソニアもまた姿を消した。
この二人の行方は誰にも知られていない。
あの戦いを共にした者達は何かをやり遂げ、そして姿を消す。自分は何もできていない。ただ引きこもっていただけだな、と車の窓から流れる景色を見てルリは思う。
この日、ルリはアーバン国へ訪れていた。
フィオ王女直々の突然の招待であった。
相変わらず宮殿に引きこもっていたルリであるが、天姫に叱咤されて仕方なく招待を受けた。
フィオとエアが迎えてくれ、しばし再会を喜んだ後、フィオからある提案をされた。
『そうだ。この国に最近できた街があって、そこが観光にぴったりなんですよ。ぜひ行ってみてください』
フィオがそう言うと、エアがルリの荷物を両脇に抱えて背中を押してきた。そうしてあれよという間に車に押し込まれ、気が付けば街の中にルリは佇んでいた。
ルリにあてがわれた従者が宿の手配を終え、荷物を手早く部屋に運び込んだ。
「ルリ様、お食事でしたらこのお店が一番です。きっとご満足いただけるかと」
そう言って手渡されたのはレストランのパンフレットだ。
怒涛の勢いであれやこれやと世話を焼かれたルリは、ほぼ条件反射のように言われた通りの場所へ足を向けた。
市場は夕刻の賑わいで満ちている。市民の表情が明るい。治安がいいのか、道にはごみ一つ落ちていない。確かにいい場所ではあるが、観光地としては物足りなさを感じる。なぜこのような場所に――
キョロキョロと周囲を見回していると、足に何かがドンとぶつかった。呆けた頭には気つけになる衝撃だった。慌てて見下ろすと、小さな女の子が額を抑えて蹲っている。
「ごめんね、大丈夫?」
膝を折り、女の子の頭を撫でてやる。
「ぶつかってごめんなさい」
そう言った女の子を見てルリの心臓が跳ねた。
そよ風になびく黒髪に、青い瞳。輪郭や目元が、よく知る人物にそっくりだった。ルリは真っ青な顔をして、体を強張らせた。
「ねえ、あなた――」
「うん?」
「お名前は?」
「私、リン」
女の子は呼吸しているかどうかも怪しいルリを心配そうに見つめて言った。
「一人なの? お父さんか、お母さんは?」
「お父さまはいないの。お母さまならいる――あ、お母さまー!」
微笑みを浮かべ、小さな足でトテトテと駆け寄っていくその先に二人はいた。
ルリの口からおかしな悲鳴が漏れた。
「うそだ、こんなの・・・・・・」
リンと名乗った少女が駆け寄った先に――アヤメとクリステルが立っていた。
ルリは駆けだした。満面の笑みで両手を広げ、二人に思いきり抱き着いた。互いの手が背中に回り、三人は輪を作って笑い合った。
「ルリ」
「ルリさん」
その声を聞いただけで、ルリは泣き出した。幻ではない現実であると、はっきりとわかったら止めることができなくなった。
「なんで、なんで」
「あの日、爆発の前に天姫様が来てくださってな。天姫様の神足通は知っているだろう? それでこの国へ」
「違うよ、そっちじゃない。ひどいよ、アヤメちゃんもクリステルさんもひどいよぉ。死んじゃったと思った、もう会えないんだって思ってたのに」
溢れてくる涙を裾で拭いつつルリは言った。
「すまなかった。この子のことや、色々とあって。しばらく身を隠した方がよいということになってな」
「ひどいぃ。あたしずっと・・・・・・こんなのってひどいぃぃ」
鼻をズルズルさせて泣き続けるルリを、リンは不安げな表情で見上げていた。ルリの頭を撫でていたクリステルが大丈夫よ、と伝えると、リンはルリの裾を引っ張った。
「あのねお姉ちゃん。泣かないで」
「うわぁぁあん、クリステルさんがママになってるぅぅ」
「あ! お家で一緒にご飯食べよ、ね? みんなでいれば寂しくないよ。ね? ね?」
「ありがとぉ、うわあぁ、可愛いぃ」
「お母さまどうしよう、お姉ちゃん泣き止んでくれないよ?」
あたふたするリンの頭を撫で、クリステルは微笑んだ。
「いいのよ、しばらくこのままで」
その目にも涙が浮かんでいる。
アヤメもクリステルも、笑いながら泣いた。幾度も抱きしめ合い、そして互いの無事を喜び合った。
二人が涙を流すのを初めて見たリンは、最初は驚きこそしたが、今は言い様のない温かな感情に包まれていた。
泣きながら笑って、何度も抱き締めあって、よっぽど大切な繋がりがあるのだとわかる。
涙を流しているのに、みんな楽しそうだった。
だからリンも微笑んで、母の腰に手を伸ばして抱きついた。
黄昏時の風がそっと背中を押すように吹いて、誰からともなく、歩きだした。
アヤメの腰には、未だ刀が差されている。
世界の崩壊を救い、戦いのない国で生きながらも武器を手放していない。
生きることを続ける限り、次の戦いはまた訪れるはず。世界が動乱に包まれる日も遠くないのかもしれない。人が蔓延る世で生きる限り、必ず間違いは起こるもの。
それを止める使命と義務があることを、アヤメは理解している。
方法は違えど、エルフリーデも世界を救おうとした。それを止めた自分達には、課せられた使命がある。
自分達の選択を正しいものにするため、生涯戦い抜くことを誓った。
だからアヤメは刀を帯びている。
大切な人の傍で、今日も生きていく。そのために。
―終―
ご愛読ありがとうございました。
これにて皇女の猫は完結となります。
このオチ、最後まで変えられずにいけるか不安でしたが、なんとか納めることができました。
とても長い間、この話を書き続けてこられたのは読んでくださる皆様がいてくれたからこそでございます。色々言いたいことはありますが、それは活動報告の方で書きたいと思います!
皆様本当に! 本当に感謝しております! ありがとうございました!
それでは、またどこかでm(_ _)m