アヤメ対ルリ
ルリは自分の胸に刃が突き刺さるのを見た。
「っ!?」
音もなく忍び寄った誰かに背中から突き刺された! そう感じたルリは本能のままにその場から飛び跳ねた。が、よく見ると胸には傷跡一つない。
この僅かな間に体から汗が噴き出た。あの時、確かに刃で突かれた。否、あれは殺気だ。汗をぬぐいつつ拘束されているはずのアヤメを見る。
アヤメを拘束していたはずの木の根は、鋭利な何かで切り裂かれており、その下、月明りを一身に受けた少女が頭に猫の耳、背後に尾を携え、白銀に閃く刀を手にしていた。
肥大した瞳は獲物を前にした四足獣の如く妖艶に光っており、数多の兵士を倒してきたルリですらこれに畏怖した。
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「人の命を弄ぶ者にはいずれ裁きが下る。でも私はそれを待てない、お前を裁くのは天でも人でもない・・・・・・私だ」
私が声を低くして言うと、ルリは慌てて身構えた。
「あはは、ありえない、ありえないよ。なにその殺気? 何が猫の化け物よ、これじゃ虎じゃん。ううん、それ以上かもね」
ルリは軽んじて尾を踏むべき相手ではなかったと後悔する。
「アヤメちゃん、解放したんだね・・・・・・っつ!」
闘志を挫かれたような顔つきであったが、唇を噛んだことにより気力を復活させたらしい。唇から滴る血を舐めとり、諦めたような笑みを浮かべた。
「やっぱりアヤメちゃんはあたしより、皇女のお姉ちゃんを選ぶんだ。もういい、もうわかったよ」
ルリの深い絶望は表情に現れていた。頬が緩み、瞳に滴が溜まっていく。
「アヤメちゃんなんて大っ嫌い! ・・・・・・解放するよ!」
絶望がたちまち強烈な憤怒に変わったのが見て取れた。
ルリの周りには吹く風に乗って花弁が漂い始め、その足元からは無数の草花が咲き乱れていた。彼女が土を踏みしめると、その度に緑が生まれる。生えた草は
その葉を剣のようにして私に向けている。
モノノケを宿す者は内なる力を解放することによって、凄まじい戦闘力を発揮することができると聞く。これまでの私にはそのような能力はなかったが、薬で覚醒したことにより可能になっていたようだ。
張り裂けるまでに見開かれた瞳に、闘気をぎらぎらと漲らせて、モノノケの力を解放した私たちは対立する。
「もうアヤメちゃんでも関係ないから、あたしは目の前の障害を払うだけ」
緑が荒れ狂う。
葉々が増殖し合い、枝々が木刀よりも固く打ち合い、無数の棘が豪雨よりも早く降り注いでくる。ルリはその場に立って大地に根を張ったように佇立しているのみ。
一帯の植物が、彼女の意思に従って襲い掛かってくる。
緑は主であるルリを守るためなら容赦がない。
「私も同じことを言おうと思っていた」
私はもう人ではない。
獣だ。
暗闇で目を光らせ、盤石を覆し、鉄骨をも爪裂き、人間を蹂躙する化け猫なのだ。
闇夜でも敵がよく見える。夜気の中で、敵が何を囁いているのかも聞き取ることができる。
私の五指からは鋭利な爪が生えている。手足の爪で襲い来る緑を斬り裂いてやる。
あれほど強靭であった木の根も、この爪であれば蜘蛛の巣を裂くほどに容易い。
一括して葉を吹き飛ばし、赤樫の木々を斬り裂き、棘を有したつる草は根っこからもぎ取ってやった。
私たちはその場から動かず相手を睨み据えたまま、しかし寸秒の油断もなく戦っている。
「モノノケの力では長引く。剣で決着をつけよう」
「いいね、一瞬で殺してあげる。痛くしないであげるからね」
私とルリは共に桜花国異形対策猟兵部隊。モノノケを相手にすることが生業だが、魔に堕ちた人を斬ったことはない。
なにより、仲間を斬ったことなどない。
だが私たちの目、構え、そして気迫。もはや引く気など微塵もないことは誰が見てもわかるだろう。
星々に照らされた刀が、海中から飛び上がった魚の鱗の如く光った。その刃には殺気と憎悪が込められているのだ。
互いに刃を手にして、相手の挙動を注視しつつ、呼吸を図ろうとする。この息詰まるような静寂こそ、サムライの決闘である。
戦闘中は目を開け、とルリには教えてきたが、一対一の戦いでは半眼でよい。気迫を滾らせるも良し、しかし平常無心である方が相手の呼吸を掴みやすい。それには半眼にて心を落ち着けていた方が有利になる。
加えて上半身は微塵の揺れも見せるべきではない。重心移動はクセがつくと、容易く剣筋を読まれる。武の秘奥に達したものは滑るような足運びをするというが、ルリもなかなかの動きをするようになった。
「ゆくぞ」
疾風の如くルリの下へと走る。つま先で蹴り上げた砂塵が地に落ちる前に、互いの刃が闇の中で戛然と噛み合った。
白い閃きが夜に煌き、金属音を奏でる。次いで怒号のようなものも混じるのだった。
引け分けなどない。これは命を懸けたやり取りだ。
ルリは必死になって私の刃を受けながらも、緑の力を用いて隙を生み出そうとしている。だが、今の私は風そのもののように素早い。
明らかに人を超越した者の動きであることは自分でもわかる。だが、不思議と力が体に馴染んでいるのだ。生涯このような速度で戦った経験は皆無であるが、はっきりと敵と剣筋が見える。
相手がルリである以上、毒や根を使って動きを封じようとしてくるのは予想できる。だがそれよりも早く、相手に一方的な防御を強制させるような急襲戦法であればルリの戦法は使えない。
「なめないで、なめないでよっ!!」
焦ったルリが叫びだす。
はやったなルリ。心を乱せば、その時点でお前の負けだ。
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クリステルは目の前の光景にただ唖然としていた。
アヤメが強いのはわかっていたつもりだが、彼女が戦うのを見るのはこれが初めてである。あまりの凄まじさに言葉が出ない。
左右に分かれた二人の少女は一瞬で距離を詰めて刃を交える。アヤメが右肩から左腰にかけて逆袈裟で斬りかかった、と見えたが実際は横薙ぎの一閃であり。後方へ飛んだと見えたルリが次の瞬間にはアヤメの背後をとっているのである。
相手とぶつかるその瞬間、即座に転じて斬りかかる対処法。数秒も満たぬうちに身を転じるその速度。これが桜花人のサムライと呼ばれる者たちの戦いなのだ。
もはや常人の技ではない。クリステルにこの光景は、古の神々の決闘のように映った。
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出し惜しみなどない。お互いが必殺の剣を用いている。幾度となく刃をぶつけ合ったが、ここにきて戦況は私に有利だ。
ルリの呼吸が乱れ始めた。意地になって刀を振るから、体がそれについていけていない。まだまだ速度を上げられる私と違って、ルリは重たいものを背負っているように動きが鈍くなっていく。
真っ向から唐竹に振り下ろした私の刃を受けきれないと思ったのか、ルリは後方へ四五間、大きく飛びのいた。しかしその刹那、私の蹴りがルリの手を捉えていた。
「あっ!」
弾かれたルリの小刀が空中でぐるんぐるんと回転して遠のいていく。
「この!」
ルリは手をこちらにかざした。
私とルリの間に、かつてないほどの草花や木の根が生み出された。これはルリを守る最後の盾である。
私は狂ったように身を縮め、自らその盾に突っ込んでいく。
容易い。急ごしらえの盾は今の私に通用しない。
緑の壁は瞬時にして四十九の欠片に斬り裂かれ、力なく大地に還っていく。
「うそ、あたし・・・解放してるんだよ? それなのに」
しりもちをついたルリが、ありえないものを見たというように青ざめている。
私は刀を強く握りしめ、ルリの頭上高く振り上げた。
「だめっ! 斬っちゃだめ! アヤメさんやめて!!」
クリステル様の声がかろうじて残っていた心を引き戻した。
「っく、うう!」
私は刃がルリの頭に触れる寸前で、刀を横に放り投げていた。
危ないところだった、本当に私はルリを殺す気でいたのだ。ルリは後じさり、上目づかいで私を見ていた。
震えるルリを掴みあげると、その頬を力いっぱい打った。キャン、と悲鳴を上げたルリが地面に叩き付けられて、そのまま頬を抑えてうずくまった。
「私がっ! 私がお前を殺したいわけがないだろう! 叩きたいわけがないだろう!」
びくっと震えたルリは私を見て目を丸くしている。
それはそうだ。こんなに悲しい顔をルリに向けたことはなかったから。
「こんなこと、二度とさせないでくれ」
「だって、だってあたしはアヤメちゃんのことが好きなの!」
「私だってお前が好きだ」
「それならっ」
「違う! 違うんだルリ・・・・・・私はお前を妹のように思っているんだ。お前とは違う」
「・・・・・・」
そこまで言い終えると耳と尻尾が再び体内へ戻っていく。
体の力が抜けた私は、その場にどうと倒れこんだ。