戦いの結末
「ふぅぅ」
精神の昂りを抑えるために深呼吸すると、桜吹雪は収まり、髪も黒く戻った。桜の枝から花びらが散るように。
凄まじい力の反動を覚悟していたが、体に疲労はなかった。この解放は他者の命を代償に行うものであるが故かもしれない。
「クリステル様」
刃を鞘に納めた私は彼女の下へ駆け寄った。クリステル様の前に立ちはだかっていたツバキが、ゆったりと体をどける。
「アヤメさん」
床にへたり込んでいたクリステル様が上体を起こし、両手を広げてくれた。
あぁ、と小さな声が漏れてしまう。
時代のうねりの中で出会い、引き裂かれた私たちはこうしてまた会うことができていた。万感の思いと共に胸に飛び込んだ。
私は孤独ではない。それを教えてくれた人、護らなければならない人。その人を再び抱きしめることができるのが、たまらなく嬉しかった。
抱きしめ合った私たちの肩が触れ合った。
「私、会いたかった。寂しかったよ」
金糸のような髪が私の頬を撫で、小さな吐息は首筋を撫でていく。感触と甘く切ない匂いが、心にこそばゆい感情を刻んでいく。
私も会いたかった。ずっとずっと会いたくて仕方がなかった。
言わなければいけないこと、伝えたいことが本当にたくさんあった。
クリステル様の目を見つめ、思いを伝えようとしたけれど、その尊い笑顔を見ているだけで精いっぱいになってしまった。
瞳を閉じたクリステル様が顔をこちらに傾ける。私もその唇に首を傾けた。
ボロボロになった私たちは、言葉も交わさずに唇を合わせた。とても自然にそうなって、そこから伝えようとしていた言葉は消え去ってしまった。
もう、いくら言葉を重ねても、この口づけには敵わないことがわかったから。
クリステル様のぬくもりが浸透していく。
この先もずっと、どうしようもなく、私はこの方が好きなのだと思った。
赤い光が一層強くなったのはその時だった。
「そんな」
クリステル様の表情が驚愕の色に変わる。視線の先を見ると、床に倒れたエルフリーデがヴァーミリオンに手を翳している。
ゾクッ、と怖気が走る。
心臓を両断したにも関わらず、奴は最後の力を振り絞ってヴァーミリオンを起動したようだ。
口許がつり上がっていた。
奴は絶命しつつ、笑っていた。
「石が――あれが動いたら世界が」
私の手を握るクリステル様の力が強まった。
忘れもしない。未完であったヴェーミリオンですら、アーバン国の城を消滅させたのだ。今の状態であればエルフリーデの願いは叶うはずだ。
『全ての建造物、及び全人類をこの世から抹消する』
奴の声が蘇る。
咄嗟にクリステル様を抱えて逃げようとした。だが、不安で冷え切った頭は冷静に働いていた。絶望に体が固まってしまう。
何をしているんだ。逃げてどうなるものでもない。
こうなれば破壊するしかないが、起動したヴァーミリオンを傷つけるのは危険だ。
『あれは危険じゃ。必ず起動する前に叩け。何が起こるかわらわでもわからんでの』
天姫様にも釘を刺された。今斬りつけて爆発でもしたら――仮に爆発するとしてその規模は? 世界を包むほどか、この国を焼き尽くすほどか。見当もつかない。くそ、ここまで来たのに。
「アヤメさん」
声が、心を現実へ引き戻す。たった一言、私の名を呼んだだけであるが、その声には全てが込められていたと思う。逸っていた心が、鎮まっていく。
「駄目ですそんな。あなたはこれまで世界のために全てを捧げてきた、だから――」
「だから――頑張って来たから。最後の我儘を聞いてほしい」
その言葉を無視して私は立ち上がり、彼女に背を向けた。
「立てますかクリステル様」
再び鞘から剣を抜き、新たな解放の力を身に纏う。再び桜吹雪が周囲を覆い、髪は桜色に変化した。
「あの石は私が。私の剣でもまだ届くはず。ですが、破壊すれば恐らく反動が。それがどれほどのものか――あなたはツバキの背に乗って可能な限りここから離れるのです、今の状態ならツバキの行動範囲の制限もない。その間に」
急に背中に温もりを感じた。
クリステル様は私にピタリと寄り添い、背中に押し付けている頭を横に振った。
「一緒です。最後まで」
「駄目です、クリステル様!」
「一人にしないって・・・・・・私を一人にしないという約束です。桜花で会った時、アヤメさんはそう言ったよ」
「それは」
「また私を一人にするのですか。アヤメさんは約束を破るのですか」
声が重くなる。敬語で話している時は怒っている時だと知ってはいるが、今はそんな場合では。
「クリス、んっ!」
説得しようと振り向いた瞬間、彼女の細い手が私の頬を掴み、唇が重なった。
「アヤメさん強くなったのでしょう。なら」
間近で真摯な目を向けられ、少し気圧される。
「一人にしないって約束も守って。ちゃんと守って。ずっと一緒、一緒です」
「・・・・・・」
最後の方の声音は静かだった。この小さな体に貯め込んでいたものを全て吐き出してしまったかのようだ。
我儘を言うことなど滅多にないのに。いや少し違うか、これは願いだ。胸を打つ、熱い言葉だったから。
「約束。私が不甲斐ないばかりに、守れたことの方が少なかった」
「うぅ、できないんですか、アヤメさんならできるはずです」
「泣かないでください」
目元からポロポロと頬をつたって零れる雫。指でそっと拭ってあげる。
「わかりました。最後まで一緒です。ここで待っていてくれますか?」
「うん」
唇を再び重ねた。
――愛しています。これからもずっと
最後に彼女を抱きしめると、剣を手にヴァーミリオンの元へ向かう。
石は既に共鳴を始めており、目が焼けるほどの光を放っていた。奇妙で耳障りな声を上げ、天井付近を高速で回転している。
狙いは五つの石全て。
一瞬で全てを斬り裂き破壊する。
石の強度など計算にない。今の私に斬れないものなどない。
唐突に、ズンと体が重くなった。
赤い光を浴びると体が火のように熱くなり、重力が増したように重くなる。最後の力で抵抗するか。
「うっ!」
――なあエルフリーデ。この世界を本当に滅ぼさねばならないなら、なぜクリステル様のような方がいる
「うおおおおおおおおおお!」
――この残酷な世界で、苛烈な運命を背負った人がこんなにも輝かしいことを知れ
人は光になれる。
・・・・・・・・・・
その瞬間は唐突に訪れた。
第七環境地区の北側でヨハンの銃が火を吹いた時。アヤメの師とその部隊がワイヴァーンと相打った時。第七環境地区東側で機械兵器アイオーンに搭乗するエアがベルセルクとワイヴァーンを制圧した時。ルリとアンジェリカが寄り添うように壁にもたれていた時。聖堂前でアウレリアがアリスの体を抱きしめていた時。
各々が、この時ばかりは一斉に空を見上げた。
ヴェルガ城の上部が強烈な閃光と共に消え去った。
これはエルフリーデ率いるヴェルガ軍の敗北を決定づけた。彼らはエルフリーデを最強と信じて疑わず、崇拝すらしていた者も多い。そのエルフリーデが、陣取っていた皇帝の間が消し去られた。
意気消沈して降伏する者、死に物狂いで暴れ回る者などがヴェルガ軍の指揮系統を乱し、反乱軍によって鎮圧された。
ヴェルガ、桜花、アーバンの連盟から成る反乱軍は勝利こそしたが、辛勝であった。
その被害は甚大。
クリステルの護衛をしてきたアヒム、アヤメの師とその直属部隊、アーバンの兵士と、多くの人々が倒れた。
そして最大の辛勝たる所以は、反乱軍が皇女クリステルを救えなかったことである。
世界は確かに救われた。
エルフリーデとヴァーミリオンはもう存在しない。
しかし、世界を救おうとしたクリステル達もまた失われたのである。