反乱~第七環境地区 聖堂前~ 償いは晴天の下で
「うくっ、っく」
むくり、と起き上がったのはアリスの方であった。
「はぁはぁ、はあはあ」
激しい頭の痛みを鎮めるように、呼吸を荒げた。ぼやけた視界で周囲を見渡すと、剣はすぐそばに落ちていた。
「・・・・・・」
ソニアの剣が砕け、双方ともに吹き飛ばされはしたが、どちらも致命傷は受けていない。ならばまだ、戦いは終わってはいないのだ。確実にとどめをささなければ。
薄れる意識の中、そう判断した。
剣を拾い、立ち上がったとみるや、ぐらりとよろめいて片膝をついた。
肩を大きく上下させてみるが、呼吸が上手くいかない。全身から力が漏れていくようであった。
ソニアの放った強力な一撃。
ヴァーミリオンの破壊はできずとも、アリスの体に著しい損傷を与えていた。今や足は震え、腕は痺れて感覚を失い、焦点も定かではない。全身が悲鳴を上げている。
剣を杖に、ずるずると足を引きずって前に進む。
ようやく倒れ伏しているソニアの元へ着き、剣の柄を強く握りしめた。
既にソニアの体に光の力はない。髪の輝きも、目の輝きも消えており、鋭利に尖っていた耳もまた元に戻っていた。
一目見て、事切れていると判断できる。打ち捨てられた体は、それほどに痛ましい姿であった。
だが、アリスは剣の先端をソニアの心臓に向けた。
――この者は油断ならない。確実な死を
そうして剣を振りかぶった時である。
ドクン! と全身を貫かれたような震えが走った。
「あっ! ぐぅぅっ! ああああああああ!」
と、異様な叫びを上げたアリスが前にのめった。
「あああああああああ! あああああああああああああああああ!!」
苦痛に表情を歪め、頭を抱えて蹲る。同時に額のヴァーミリオンの輝きが、急速に失われていった。ひとしきり悶えた後、ふと顔を上げたアリスの目は、赤黒い色を失い、常のような緑の色に戻っていた。
目の前で倒れているソニアを見てハッとする。
同時に、ここ、第七環境地区に来るまで、殺めた人間の顔が浮かんだ。
「そんな・・・・・・私は、私は何をっ、なんてことを」
落ちていたガラス片に、自分の姿が映っているのを見た。
額のヴァーミリオンの光が今は失われている。
今であれば、そう思ったアリスは剣の刃を自らの胸に向け、そして――
「許してね、アウレリア」
一思いに突こうとした時。
「うっ!」
悪夢から覚めたのは、ほんのひと時であった。再び体がよじれるほどの激痛に襲われた。
痛みの元は額のヴァーミリオンである。この魔石は、闇の心を否定するアリスを決して離さない。
「あああ! うっ! うあああああああああ!」
ガシャン、と音を立てて剣が落ちる。アリス自信もまた、ばったりと地面に倒れ付した。
石畳についた手が、痛いほど強く握りしめられている。土だらけの地に、白い頬を擦りつけて悶え続ける。手足をいくら動かしても、苦痛を逃す術がなかった。
「うぅ、ああ」
苦しみにもがく中で、チャリン、と透き通る音を聞いた。
見れば鎖骨から零れたチェーンが地に落ちていた。ソニアとの激突の際、光と風の衝撃で服の胸元が破れていた。そこから零れ落ちたのだ。
「っく」
水をすくうように、チェーンを掌ですくい上げてみる。そこには指輪があった。
――アウレリア
「がっ! うぅぅぅっ!」
――お願い、お願いよ
アリスは指輪を両掌で包み込み、それを胸に抱いて悶えた。
――あの子は、あの子だけは傷つけたくない。護りたい、そう思うから。だから
「ああっ!!」
ドグン! と先ほどよりも大きな衝撃を体全体に感じた。ビクンと跳ね上がったアリスの体が、しばしすると全身の力が抜けたようになった。そうして、再び立ち上がったアリスの目は、赤黒く変色していた。ヴァーミリオンの赤い輝きも、元に戻ってしまっていた。
落とした剣を再び拾い、ソニアに突き刺そうとした。
その時である。
「アリス!」
聖堂横にある径に、アウレリアが立っていた。
髪も服も乱れた姿である。途中で転んだのか、膝には擦り傷ができており、白い頬は汗と涙のつたった上に埃を被り、黒く汚れてしまっていた。胸元で抱きしめるように持っているのは、ヴェルガ皇女のみが持つ銀色の懐剣であった。
「ソニア・・・・・・あなたがソニアを?」
アリスがゆっくりと振り向く。その瞳が未だ赤く染まっていること、そして彼女の足元で倒れているソニアを見たことで、アウレリアは懐剣を握る手に力を込めた。
アウレリアの瞳に一瞬、暗いものがほのめいたが、きゅっと唇を結び、凛然とした表情でアリスを見た。
悪夢を見た。アリスが幾人もの大切な人を奪っていく夢である。
悪い予感は的中した。現に、アリスは倒れたソニアに剣を突き刺そうとしていた。
「ピアだけでなく、ソニアまで」
返事はない。
「もうやめて、誰も傷つけないで。その赤い石。 それがあなたに、酷いことをさせるのでしょう? お願い、元に戻って・・・・・・で、できないと言うならわたくしが」
アウレリアは懐剣の刃を抜いた。両手で柄を掴み、その切っ先をアリスの胸元へ向ける。
この懐剣で止められるとは到底思えない。戦闘における実力差も明らかである。アウレリアはそれでも向き合うことを決断した。
今アリスを止めなければ多くの人が犠牲になるのは明白であった。
――わたくしが、止めなければ
アリスが石に操られているのは、察しがついている。
このまま操られ続ければ、多くの人を殺めてしまうことも。
愛する者が罪を背負うのであれば、寄り添う自分もまた同じ罪を背負う覚悟。例え地獄へ落ちようと、自分だけは最後までアリスの味方でいようと決意していた。
しかし、アリスが人の道を外そうというのなら、止めなければならない。
味方であるからこそ、愛しているからこそ、命を奪うという悪の所業、断じて看過することはできない。
「わたくしのことを、まだ愛してくれているのなら、もう一度名前を呼んで。お願いです」
アウレリア
優しく髪を撫でながら、そう呼んでくれた夜を思い出す。
アリスが剣を手に、無言でアウレリアへ迫っていく。その瞳に、かつての光は全く消え失せていた。
「アリス」
淋漓と頬を涙がつたった。
手が震えたため、懐剣の切っ先も揺れた。
「お願い、愛していますの。大好きなんですの」
肩を張りつめ、悄然と嗚咽を飲みこんだ時である。
「にげ――さい」
アリスの声にハッとした。
「にげ、て。はやく」
剣を手に迫るアリスは苦悶の表情で、アウレリアに逃げろと訴えかけていた。
「アリス」
「ばか、早く逃げて、はや、く。はやく! 早く!!」
鬼気迫る叫びを上げたアリスを前に、アウレリアは微笑んだ。
何事か呟いたアウレリアの瞳に力が宿った。
懐剣を握る力が強まったと同時、手の震えは消えていた。
「ふふっ」
次に聞こえたのは強ばったアリスの笑い声。常よりアウレリアに向けているものとはかけ離れた、憎悪が込められていた。
「やめて、お願い。その子だけは」
また次に聞こえたのは、懇願の声である。
悲しみに歪む表情は、しかしすぐに、邪悪な微笑みにとって変わった。
ピアをあやめてしまった時に見せた、恍惚とした笑みと同じである。
瞬間。アリスは胸のチェーンを引きちぎり、指輪をかなぐり捨てた。
放られた指輪が弧を描いて落ちた時、アリスは地を蹴り、恐るべき速度でアウレリアとの距離を詰めた。避けることなど、到底不可能な速さであった。振りかぶった剣が、瞬きする間もなくアウレリアの胸元へ振り下ろされた。
ドキュッ! という衝撃がアウレリアを襲った。
鮮血がほとばしる様は、華の開花の如しであった。
瞳を大きく見開いたアウレリアの頬に、血飛沫が飛び散る。
足元の血溜りは、既に靴底を赤く染めていた。
「あ、あぁ」
アウレリアが絶望の声を漏らす。
懐剣が、アリスの胸に深々と突き刺さっていたのである。
ガシャン、と音がした。アリスの剣が落下する音である。斬られたと見えたものは錯覚であった。アリスは剣を振り下ろす寸前で、上空へ放り投げていた。空の手のまま、殺気のみを飛ばしていたのだ。
あの土壇場で、アリスはヴァーミリオンに打ち勝った。大切な人を護るため、闇を振り払ったのだ。
しかし、勢い止まらず、そのままアウレリアの懐剣に飛び込んでしまったのである。
刃はアリスの胸に深々と飲み込まれていた。プッ、と吐き出された血が、アウレリア頬に飛んでいた。
ぐったりとしたアリスを支え、互いに抱き合うようにして、血溜りの中にへたりこんだ。
「アリス」
アウレリアが呟いた時、アリスの額に埋め込まれていたヴァーミリオンが碎け散った。
はぁぁぁ、と。アリスの口から、長い安堵の吐息が漏れた。口の端からは血が流れ落ちていたが、苦痛とは不釣り合いな、清清しいものであった。
顎をアウレリアの肩に預け、自らの方へ抱き寄せた。
「よかった・・・・・・よかったわ」
そう呟いて、震えるアウレリアの頭を、何度も撫でるのだ。
「私のこと・・・・・・止めに来たの?」
「あ、あぁ、ふっ」
「いい子ね・・・・・・アウレリアは、本当にいい子・・・・・・」
アリスが掌をかざすと、落ちていた指輪がふわりと浮いた。そのまま、アウレリアの眼前に運ばれていく。
「血でね、汚れちゃうと思ったから外したの」
「ふっ、ひっ、わたくしは――」
アリスがいくら頭を撫でてあやしても、アウレリアの震えは収まらなかった。
「ねえ、ほら。指につけてよ」
想い人を刺してしまった衝撃から、アウレリアの思考は完全に停止していた。言われるがまま、血まみれの手で指輪を掴み、アリスの左手、薬指に通してみせた。血で赤く染まった銀の指輪は、なんの抵抗もなく指にはまった。
微笑んだアリスが、左手を空に向けた。陽を浴びて輝きを放つ指輪は、本当に美しかった。今までで身に付けてきたものの中で、一番の耀きであった。
「ふふ、あはは。綺麗だわ・・・・・・アウレリア・・・・・・ごめんね」
アリスがそれから口を開くことはなかった。
空に向けていた左手は血溜りの中にパシャリと落ちた。
アリスの体から力が抜けたのを、アウレリアは確かに感じ取っていた。たった今、腕の中にあった命が消えたことを理解した。
「あっ」
アリスの体から、鼓動が消えた。
「アリス、アリス」
思い出したのは、母が死んだ日のこと。
あの時も突然に命が終わりを迎える瞬間を見た。それと全く同じであった。
感情が消えていく。
何も考えられなくなる。
真っ暗な世界に、一人だけ取り残されたような感覚に陥る。次第に周囲の景色も、音も消える。暗闇の中、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
ドン! という炸裂音が響き、アウレリアの体がはね上がった。
戦いは未だ終わってはいない。どこか近くで、爆弾が破裂したのだろう。その音がアウレリアを現実に引き戻したのである。
「アリス、ねえアリス。帰りましょう」
揺さぶっても、答えはない。
「帰りましょうよ。わたくしたちの家に帰りましょう。話したいことがたくさんありますのよ。だって、まだわたくしたち、出逢ったばかりで」
ただ、体が重くのし掛かるだけである。
「・・・・・・うそ、ですわ。こんなに温かい。まだ体がこんなにも温かいのに」
そこまでが限界だった。
もう認めるしかない。アリスは二度と、自分に微笑みかけることも、触れることもないのだ、と。
どんなに泣こうと、決して答えてくれないことは知っている。母が死んだ夜も、あんなに泣いたのに、母は――
アウレリアは泣いた。
爆音が響き、煤が漂う戦場の中。
アリスを抱きしめ、青い空を見上げながら、大声を上げて泣いた。
第七環境地区、聖堂前の戦い
ソニア、アリス共に戦闘不能




