魔に堕ちた皇帝
アリスの命令により、隔離塔に閉じ込められていた皇帝は日々苦悩の中で過ごしていた。クリステルを一目見た時から沸き起こった衝動が一向に鎮まらない。
亡き妻の面影を宿した娘。今やその美貌、眼差し、愛、全てが一級。愛娘の一人へ向ける思いは、かつて妻に向けていた以上のものとなった。
クリステルは妻にも勝る光。
触れたい。
その体と心を自分のものにしてしまいたい。
「あれは、悪魔だ。我が妻は悪魔を孕んだのだ」
目にする者、全ての心を奪い去ってしまう魔物。
妻が死したのも、我が心がここまで乱れたのも全てクリステルのせいに違いない。
魔物は殺さねばならない。
皇帝の中に眠っていた闇は、こうして膨れ上がったのである。
ヴェルガ城が襲撃された時、数名の兵が隔離塔から皇帝を連れ出した。皇帝はシェルターへと誘導される際、兵達の一瞬の隙を突いて武器を奪い、皆殺しにした。かつて皇帝はヴェルガ騎士団から直々の訓練を受けており、その腕前は騎士団長から剣技充分と称されるほどである。
そうして“聖なる間”に保管されていたヴェルガ城の聖剣を手に入れ、クリステルを葬るために城内を歩き回っていたのである。
「クリステル、探したぞ」
まるでアンジェリカのことなど眼中にないように、皇帝はまっすぐクリステルだけを見据えている。その目は妖艶に爛々と輝き、もはや正気ではないことは明らかであった。
あまりの気迫に、クリステルは前進も後退もできずに固まった。
「お前だ、お前さえいなければこんなことにはならなかった。この国も、私も、滅ぼしたのはお前だ」
鞘の切っ先をクリステルに向ける。
刀剣は鞘で包まれているはずだが、持ち手の気迫から抜身の刃を突き付けられているようであった。
「我が娘よ、お前は死ぬのだ」
つかつかと歩み寄ろうとした皇帝の足に何かが絡みついた。
「うっ、クリステル様、逃げて」
額から血を流すアンジェリカである。
「邪魔をするな」
振り上げられた剣がアンジェリカの背中に振り下ろされた。空気を斬る音に次いで、ボグッ、という鈍い音が響く。衝撃でアンジェリカの体が反り返った。
「グッ! ぅうううっ!」
鞘で覆われているとはいえ、剣の重みそのままに背中を打たれた。ぐったりと地に伏したが、皇帝の足を掴んだ手は離れない。
「にげっ、クリステル様」
「まだ言うか。ええい、これでもか!」
バシン! バシン! と音が相次いだ。
クリステルはあまりの衝撃な光景に、口の中が乾ききっていた。鞘に入れているとはいえ、剣の重みは十分である。大人ですら骨が砕けるほどの衝撃を、若干十一歳の少女が受けている。しかもそれは、他でもない実の父親がしていることであった。
「やめてっ! もうやめてっ!」
咄嗟にクリステルはアンジェリカの背に覆いかぶさった。そうしたことで、一振りを背中に受けた。
ドグッ、という音が響き渡り、体全体が跳ね上がった。その一撃は脳まで揺さぶるほどの、尋常ではない痛みを生み出した。
「うっ! アッ・・・・・・」
耐えがたい激痛が体中をのたうち回る。あまりの痛みに意識が飛びかけるが、この一撃をアンジェリカは何度も耐えていたのだという事実が現実に繋ぎとめる。
「アンジェ、大丈夫ですか」
クリステルがそう言うと、アンジェリカは「エ、エッ、ウッ」とえずいた後、胃液を吐き出した。
「エッ、はうっ」
ピチャピチャと嘔吐するアンジェリカをたまらずクリステルは抱きしめた。
「ほう、これはいい。お前からこちらへ来てくれた」
笑みを零した皇帝は、そうして剣の鞘を払った。今やヴェルガの聖剣は抜身となり、銀色の刃が寒々しく輝いている。
「一突きで心臓を貫いてやる。覚悟しろ」
頭上から落ちてくる言葉を聞いたクリステルは、そっとアンジェリカの元を離れ、父の前に立った。そして物憂げな紺碧の瞳で皇帝を見つめた。
「なんだその目は?」
「あなたはもう、父ではない」
「なに?」
「アンジェリカにこれ以上ひどいことしないで。やるなら私だけになさいっ!」
カッと突然目を見開いたクリステルが発した言葉は皇帝の心を大きく揺さぶった。
やはりクリステルにも皇族の血が宿っていると思い知らされる。病弱であった面影など微塵もなく、今や威風堂々と父の前に立ちはだかっている。
「私もただではやられませんよ。今やこの体は私一人の命ではないのだから」
「その目をっ! その目をやめないか!」
瞳の奥は濁り一つない透明な水のようなもの。そこに濁りがあるとすれば、瞳に映る皇帝自身である。その事実が、皇帝には酷く恐ろしいのだ。
皇帝が畏怖している時。
――クリステル様
アンジェリカは沈みかけた意識を取り戻していた。
「神、よ・・・・・・われの・・・・・・すくい・・・・・たまえ」
――やっぱり、エルフリーデさんの言うことも正しい。だって、こんなのはあんまりだもの。正しくあろうと生きてきた人が、悪い人の手にかかって殺されてしまうなんて。そんなことが許される世界は間違っている
「天の神よ、我が主よ・・・・・・声を聞きたま、え・・・・・・そして悪を、我から・・・・・・遠ざけたまえ」
――いつだって悪い人は善い人が積み上げてきたものを、何もかも一瞬で奪い去っていくんだ
「悪しき者よ光の前に・・・・・・」
――だから、私が!
「光の前に跪け!」
アンジェリカが叫ぶと、突然、天の雲が裂けた。そこから光が真っすぐに降り注ぎ、窓を通して皇帝を包み込んだ。
「なっ!?」
瞼を閉じ、顔を腕で覆い隠しても尚、光はどこまでも凄まじい。
「目がっ! 目が焼けるようだ!」
皇帝は手にしていた剣を無我夢中で振り回していた。羽虫の大群を退けるが如く光りを追い払おうとするが、それは強さを増すばかりであった。
「やめろ! やめてくれ!」
とうとう剣を放り出し、よろめきつつ必死に廊下の奥へ逃れようとした。
「逃がさない」
背中から翼を生み出し、瞳を黄金に輝かせたアンジェリカが、ゆっくりと逃げていく皇帝を指さした時であった。
「はぁはぁはぁ、ううッ」
鋭い痛みを腹部に感じた。そっと触れてみると、手は血でべっとりと濡れていた。
「あれ?」
先刻までは全く気付かなかった。粘つく血がポタポタと床に落ちるのを見て、呼吸が不規則になり始めた。
「おかしい、な。まだ、頑張らないといけないのに」
「アンジェリカ!」
クリステルの絶叫と共に、アンジェリカは膝から崩れ落ちた。背中の羽は幻であったかのように消失し、光で満たされていた廊下も常のような暗さを取り戻していく。手の震えを抑え、辛うじて立ち上がろうとするアンジェリカを抱きしめたクリステルは息を呑んだ。
先刻、皇帝が振り回した剣の切っ先が腹部を斬り裂いていたのだ。横一文に斬られ、そこからは血が次々と溢れ出てくる。
「止血を、それから医務室へ」
涙声になったクリステルが抱き上げようとするのを、アンジェリカは拒んだ。その視線の先に、よろめく皇帝の姿があった。
「おのれ、貴様かっ! 我をなんと心得るか! 国の長に歯向かいおって!」
振り返った皇帝は凄まじい形相であった。皮膚が焼けるほどの光を一身に受けたため、眼球は潰れ、顔面の皮膚が所々剥がれ落ちている。身も心も怪物のように変貌していた。
「クリステル様」
「え?」
突然、アンジェリカが身を起こしてクリステルの頬にキスをした。小さな唇の音が響いた瞬間、クリステルの体から痛みが嘘のように消えた。
「なにをしたの?」
「治しておきました。えへへ」
アンジェリカはそっとクリステルの胸を押した。
「走れますよね? ちょっと遠回りになっちゃうだろうけど、来た道を戻って。地下のシェルターへ。さあ急いで」
「いいえ、行くのならアンジェも一緒です」
「アンジェ・・・・・・私は無理です。自分の傷は治せないし、皇帝陛下を止めないと」
皇帝はゆっくりと近づいてきていた。あと数歩も進めば、先ほど放り投げた剣も拾い上げてしまうだろう。荒い呼吸をしており満身創痍なのは明らかだ。しかし、焼け焦げた体の奥にある力は失われていない。獲物を見つけ、血肉を断つ。そうした荒々しい力が迸っているのが、アンジェリカにはわかるのだ。
「さあ、行ってください」
アンジェリカの背中に再び翼が戻った。痛みを押して、精いっぱいの力強さで立ち上がった。
「お願いです、行ってください。無駄にしないで」
アンジェリカの悲痛な訴えに、クリステルは動けない。この小さな少女を残して行けるはずがなかった。
迫りくる皇帝がついに剣を手にし、「貴様ら! かくご」と声を荒げた次の瞬間。
皇帝の姿が消失した。悲鳴もなく、一瞬のうちに砂となった。纏っていた服も、掴んでいた聖剣も、今や床の上で砂の山となっている。砂の粒がいくつも床に落ちて、砂塵が宙をゆるやかに舞っていた。
消える寸前の死人のような皇帝の顔だけが、いつまでもクリステル達の脳裏に焼き付いていた。
「こんなところでなにをしているのかしら?」
それは漂う砂塵の奥から聞こえた。その言葉に感情は籠っていなかった。
アンジェリカは緊張に顔を強張らせる。この時ばかりは、痛みも少し遠のいた。
「クリステル様を皇帝の間へ連れて行きなさいと頼んだのに」
エルフリーデが空気を軋ませて現れた。
「エルフリーデさん」
「なんですか? 申し開きがあるのなら聞いてあげますよ?」
笑顔だった。明るい顔で怒ってはいないと思うが、不気味なまでの声の朗らかさには不機嫌が込められているようでもあった。
「ねえ、アンジェリカ」
呆気に取られていたアンジェリカであったが、エルフリーデの笑みを見てから力が抜けたように座り込んだ。もう逃げることは適わないとそう悟ったためである。ナディアに救われた日の証を示そうとしたが、そんなことはもうできないらしい。
「簡単な任務もできないなんて。失望しましたよ――」
「エルフリーデ」
クリステルが割って入ると、エルフリーデの柔らかな笑みが消えた。
「私は皇帝の間へ行くつもりです。だからアンジェリカの手当てを――」
そこでクリステルはエルフリーデの姿を見失った。
エルフリーデは一瞬でクリステルの背後に移動した。この瞬脚は、天使の力を宿したアンジェリカの目でさえ追えなかった。
クリステルの背後から白い手が伸び、両頬を音もなく包み込んだ。「眠りなさい」耳元でそう聞こえた途端、クリステルは真夜中の世界に吊るされたような感覚に陥り、やがて意識が遠のいていくのを感じた。
倒れたかけたクリステルを抱き上げ、エルフリーデは冷たい視線をアンジェリカに送る。
「エルフリーデさん。クリステル様に、酷いことを、しないで」
「あなたには関係のないことです。この反乱が終わるまで生き延びることができれば、約束通り私の世界へ連れて行きましょう。その傷に耐えられず死んでしまうのなら、あなたはここまでですよアンジェリカ」
歩き去っていくエルフリーデを最後まで見ることができず、アンジェリカは倒れ伏した。腹部から出る血が、じわじわと床に広がっていく。
「痛い、よ。寒いよ」
急激に瞼が重みを増していく。暗い夜の闇が目の前に広がっていくようであった。
「レキちゃん」
アンジェリカのささやきが小さく漏れた。




