アリスとエルフリーデ 3
ヴェルガ城内には「光の間」と呼ばれる場所がある。
そこは壁も床も、琥珀色に輝く強固な鉱石を削って製造した空間である。舞踏会でも開けそうな、十分な広さのある空間。聳える支柱は、さながら太古の森に生える大木の如く連なり、巨大な楕円形ドームの屋根を支えている。壁や天井には鉱石とガラスが交互に嵌め込まれており、この広々とした空間に太陽の光を取り込む設計が成されている。
その広間をエルフリーデが歩いていた。天窓からの光を受け、金色の髪が輝きを放ちつつはためく。神聖な力と容姿も相まって、光の間を行く姿はさながら女神である。
女神は目前まで迫った戦いの気配を気にも留めていない。気になっているのは予てより準備を進めてきた戦士のことばかりである。
光りの間は皇族が居住区から社交場へ出向く際に使われるただの通路であるが、エルフリーデはこの場所に隠された秘密を知っていた。
皇帝の間へと続く扉から数えて手前四つ目の支柱。この支柱の床を、踵で三度、トントントン、と踏んでみせた。
すると支柱の表面が四角く区切れ、見えない力に押されるようにズズズと下へ引っ込んでいくのである。このカラクリは支柱内に埋め込まれた金属の歯車と鉄の鎖によるもの。金属が擦り合う音が響き、ちょうど人が通り抜けられるほどの真四角の穴が現れた。
その穴には地下へと続く階段があった。
先は漆黒の空間であった。差し込む日の光が、かろうじて目先を照らしているものの、それより先はいかに目を凝らしても色濃い闇があるばかりだ。
エルフリーデはゆっくりと階段を下り始めた。数段降りると、再び金属の歯車が回る音がして、四角い壁が今度はせりあがっていく。そうしてまるで入り口など存在しなかったかのように、支柱に空いた穴は静かに閉じていく。
・・・・・・・・・・
悲鳴や呻き声が聞こえない。
最初の一週間などそれはもう凄まじい悲鳴を上げていたものだが、さすがに三か月ともなると気力も失せたか。
手をかざすと球状の眩い光が生まれ、掌の先をふわりと漂う。ちょうど星を掌に浮かべるような、そんな淡い光。
私は光のエルレンディア。これくらいのトリックはお手の物だが、この三か月間続けてきたもう一つのトリックは功を成しているだろうか。
調子はどうだろう。今日この時のために準備してきたのだから、使えないと困るのだが。
思いとは裏腹に、私は高揚で満たされている。今日は何もかもがうまくいきそうなのだから、きっとあの子も大丈夫なはずだ。
階段を下りていく度、先に待ち構えている禍々しい力が色濃くなっていくのが分かる。
「うふふ」
思わず笑みが漏れてしまう。
この部屋は幾度となく改築を続けたヴェルガ城の中にできた隙間の一つ。例えば一回と二階の間にできた、中二階のようなもの。こうした部屋は城のあちこちに点在するが、ここだけは少し特別。なんでも現皇帝が赤ん坊の時代には、セーフルームとして使われていいたらしい。コンクリートの壁の奥には鉄板が仕込まれており、要人を避難させておくにはうってつけだ。或いは閉じ込めるのにも。だってどんなに叫んでも、悲鳴は外に漏れないのだから。
階段を下りた先には、生活するには十分な部屋がある。ベッドもトイレもあるし、換気口からは新鮮な空気が常に入ってくる。しかし、私がここに閉じ込めた人間にはどれも必要ない。
「ごきげんよう、アリス」
拘束されて項垂れていたアリスを見て、私は微笑みを浮かべる。
高々と上げた両手を鎖で縛り上げ、壁に磔にしてあげた。足にも同じように鎖を繋げて、身動きが取れないようにしてある。縛りつけ、傷ができれば外し、治ればまた縛り付ける、を繰り返した数か月。この牢は確実に精神を蝕んでいるはず。
「気分はどう? 粗相はしなかったかしら?」
壁掛けになっている燭台の蝋燭に火をつけて回りつつ、アリスの様子を見てみる。
再び鎖で縛り付けたのが一昨日の夕方だから、そこからはずっと悶え続けたわけだ。ひょっとしたらと思ったが、どうやら下着を汚すような真似はしなかったらしい。
「・・・・・・エル、フリーデ」
彼女はとても重たそうに、項垂れていた顔を上げた。なけなしの力を振り絞るかのような動きだった。
朦朧とした意識の彼女の瞳には輝きはない。その代りに輝くのは、額で朱く輝く小さな魔石。私が彼女に埋め込んだヴァーミリオンの欠片だ。ガラス玉ほどの小さな欠片が彼女の心を取り戻すことを願ったのだが――
「その目はまだ抵抗してるってことね」
私の言葉にアリスは口角を吊り上げて笑った。
「お前は、私が殺す」
「あのね、あなたにヴァーミリオンを埋め込んだのは闇の力を呼び戻すためよ。本来の姿になるために力
を貸してあげてるのに。お礼は言われても、蔑まれる覚えはないわ」
手をかざしてエルレンディアの力をヴァーミリオンへ向ける。
アリスの額が朱く輝き、室内は全てヴァーミリオンの輝きに呑み込まれた。
「あッ! ああああ!」
後ろ髪を引っ張り上げられたかのように、アリスの頭がガクっと反れる。
「ああああ! ああああああ!」
朱い光が強くなると、アリスの手足がガクガクと震え始めた。体が痙攣すれば、彼女を繋いでいた鎖の音も擦れて響く。とても耳障りな鉄の音。それよりも大きなアリスの悲鳴。
「意地張ってると、本当に死んでしまうわよ?」
指先の爪がパキリ、と割れ、腕や足の血管が破裂して、白い柔肌から血が噴き出している。そんなふうにアリスの体が壊れる度、小さな室内で張り裂けるような悲鳴が上がる。
「ねえ、いい加減に抵抗するのは止めなさい。もうボロボロでしょ? 私だってあなたの悲鳴なんて聞きたくはないわ」
「黙れ! 黙れえ!」
彼女はかぶりを振るばかりで私の声に応えない。
「闇の力を受け入れなさい。それが本来のあなたなのに、光など抱き入れようとするからだわ。そのヴァーミリオンはね、あなたの心に巣くった光を吸いだしてくれるの。毒抜きするみたいにね――それなのに、抵抗するから毒が体中を暴れ回るんだわ」
かざしていた手を降ろすと、ヴァーミリオンの赤い光がゆっくりとしぼんでいき、室内は再び蝋燭に灯った光に照らされた。
「ッくはッ! ッが、あ、はぁ、はぁ」
力んでいたモノが抜けたアリスの体は前のめりに倒れそうになるが、拘束していた鎖がそれを許さない。もう立つこともままならないはず。血だらけの体を支えているのは冷たい鎖のみである。
「苦しい思いはもう十分してきたでしょう。私と力を合わせて終わらせることができるのよ? マリアにもうすぐ会えるのに――」
ぴちょっ、と頬に着いた液体。赤くどろりとしたそれは、アリスの口から吐き出されたものだ。
「マリアの名前を出さないで・・・・・・このくらい、あの刑務所で受けた痛みに比べればこのくらい何でもないのよ。お前なんかに私は屈服しない・・・・・・何が本来の姿よ、それは他人じゃなくて私自身が決めるものでしょう。私はもう生き方を変えたの」
「強情ね」
指先で頬の血を拭い、彼女の目を真っ直ぐに見据える。
エルレンディアはバイズという力を使い、様々な不可能を可能とする。瞳を通して人の心を覗き見ることができるのも、バイズの力の一つ。
エルレンディアの目をアリスに向けると、あからさまに動揺して目を閉じてしまった。
「どうしたの? 強がりは言えても抵抗する力も残ってないのかしら?」
彼女は何も答えない。
私と同じくアリスもまたエルレンディア。宿す色に違いはあるが、存在は同義である。
エルレンディア同士ではバイズの強さが拮抗し、心を読むことが難しかったが。
「見えるわよ、あなたの心が」
今のアリスには抵抗する力も残っていない。
「これまではずっと力押しでやって来たけど、この方法はもう止めにするわ。降参するより先に、あなた死んでしまいそうだもの。やっぱり自分自身の心で決めるのが一番よね?」
「ふふふ、何を言ってるの。私が闇の力に手を出すと思うの?」
「刑務所」
「え?」
「あなたさっき刑務所って言ったわね。ここに閉じ込められてから、刑務所を思い出す機会も多かったでしょう。そう、あなたはこれに似た苦しみをかつてずっと受けていた。四年もの間、毎日毎日変態共に嬲られたあの日」
「や、やめて、心に入ってこないで」
「残酷で色褪せない記憶。この暗い部屋の中、ずっと当時のことを思い出していた――そう、大切なアウレリア様のことよりも、あなたは刑務所でのことを思い出していた」
「やめて!」
「思い出しなさい。あの日決意したことを、なんのために今日まで生きて来たのかを」
アリスの頭を両手で包み込み、光のエルレンディアとして最大限のバイズを送り込む。
今のアリスは脆い。心には容易く侵入できる。
額に埋め込まれたヴェーミリオンを通すことで、その効果は数倍に膨れ上がる。
「さあ思い出して。そしてゆっくり話をしてきなさい」
あなたは闇を否定しているけど、あなたの魂に宿っている闇のエルレンディアはどうかしら?
凍り付いた地獄に、再び灼熱の業火を呼び戻す。
その火で心臓を焙られながら思い出すがいい。何のために今日まで生きて来たのか。その決意はどれほど強大なものであったか。
闇の魂は、きっとあなたを元に戻すでしょう。
あの日のアリスに戻してくれるでしょう。
これでだめならもう打つ手がない。




