アリスとアウレリア 3
こちらは表現を規制させていただいております。
【ノクターンノベルズ】の「皇女の猫【解放版】」に完全な形で掲載しておりますので、そちらをご覧ください。
洗ってあげる、そう言ったのはアリスだった。
アウレリアの手首を拘束していたシーツが解けた。朦朧とした意識のままベッドに佇んでいると、アリスの手が伸びてたちまちアウレリアは裸にされてしまった。
もう悲鳴を上げる気にもなれない。そう思っていると、放られたタオルが頭にばさっと落ちて来た。
「行くわよ」
手を引かれてアウレリアは立ち上がる。
浴室は夕刻にクリステルとアウレリアが使用したばかりで、タイルの床には未だ水が残っていた。アウレリアはタオルで前を隠しながら手を引かれるままに歩く。足の裏にぴちゃんと冷たい水が張り付くと、背筋が少しだけ震える。
――あぁ、あの時。お姉さまと体を洗いっこした時は幸せでしたのに
姉の顔が浮かんだ瞬間、深いところにあった意識が戻る気がした。これまで何でもないと思えていたことが、ひどく悲しいことに思えてならない。
――悲しい? どうして? アリスに触れてもらったのに、何が悲しいんですの?
胸には刹那のごとく悲しみがよぎるが、疲弊した精神では悲しみの理由がわからなかった。
ゆっくりと思考を巡らす。
恋人に触れてもらったことは嬉しかった。けど、それと同時に悲しかった。どうしてだろう?
アリスの目、まるで憎しみをぶつけるようだった。
――わたくしへの怒り?
彼女の傷を癒すためなら、体を傷つけられても構わないと思った。けど、あんなに憎しみのこもった目を向けられるのは。大好きな人から憎まれるのは辛かった。
「っふ、うっ、えぐっ」
悲しみの正体がわかると、それは明確な痛みへと変わった。堪えようと思うほど、嗚咽が止まらなくなって胸が苦しい。
アリスはシャワーの柄を掴んだ。コックを捻り、ノズルから出るお湯の温度を十分に手で確認してから アウレリアの肌にかけた。
「顔上げなさい」
手の甲で涙を拭うアウレリアの顎を持ち上げ、額から後ろ髪の方へ流すようにしてお湯をかける。
「アリ、アリス」
シャワーを浴びながらアウレリアはしくしくと涙を流し続ける。
「わたくし、何か悪いことをしまして? なら謝ります、だからあんな憎むような目はしないで」
「・・・・・・もっと近くに来てよ、洗ってあげるから」
お湯の滴がアウレリアの腹部に当たって跳ね返る。跳ね返った水滴はタイルに落ちて弾け、それは飛沫となり、二人の足元を煙らせていく。
いくつかの水滴が玉になり、アウレリアの肌に張り付いていた。それは体を動かす度に、滑らかな曲線に沿って流れ落ちていく。
お湯だったのか涙であったのか、一つの滴がアウレリアの胸からお腹へ線を引いて流れ落ちた。
「悪かったわよ」
珍しい表情に釘付けになってしまった。
アリスがこんなふうにしおらしくなってしまうなんて。
「なんで、どうしてあんなことしたんですの?」
恐る恐るといったふうに聞くと、アリスは口を「へ」の字にして居心地悪そうに目を伏せて言った。
「それは――わかるでしょ?」
「わかりませんわ」
「あんたが、クリステルとイチャイチャしてたのが気にくわなかったのよ」
頬を膨らませてそう答えた。
「やきもちですの?」
無意識にそんな言葉が零れ落ちた。慌てて口を塞ぐアウレリアだったが、既にアリスの頬は真っ赤に染まった後だった。
「イチャイチャって、お姉様ですのよ? それにやきもちを妬かなくても」
「アウレリアはクリステルのこと好きでしょ?」
「・・・・・・好きですけど、あくまで姉としてですわ。」
「そういう好きじゃないわ。気づかないうちに、その――とにかく私は心を見たんだから」
一人にしてしまった。
アウレリアはそう思った。
アリスの腰に両手を回し、精一杯の思いを込めて抱き締める。
「わたくしが好きなのはアリスです、さあ心を読んでみて下さいな」
濡れた唇をそっと重ねた。
・・・・・・・・・
二人はベッドに入った。
とにかく、どんな時も触れていたかった。
手を握ったり足を絡めたりするうちに、切ない思いが込み上げてたまらなくなった。
抱きしめ合い、目が合えばキスをする。つがいになった猫のように、ひたすら肌をすり寄せ続けた。
幸せだ。アウレリアの頬に垂れた髪をかき上げつつアリスは思う。
今更ではあるが、まさか自分がマリア以外の人に恋をするとは思ってもいなかった。
決してマリアへの想いが消えたわけではない。胸の奥で今も大切な思い出は輝いているし、目を閉じれば昨日のことのように彼女の笑顔を思い出せる。しかし、それは全て過去のものであった。
これまでの人生で最も輝いていたのは、マリアと過ごしたかつての日々。理不尽にそれを奪われ、心に傷を負ったが故に、未来に光を見いだせなくなった。
アリスは過去に焦がれ、そのために生きて来た。
だが、アウレリアに恋をしてからは未来を考えられるようになった。
この子と生きてみたい、そう思うと景色が一変した。これまで停滞していただけの人生が、急加速していくのである。
普通の人間として、アウレリアを支えながら生きていく。そんな人生も楽しいかもしれないとまで思っていた。
「お姉さまが、しばらくは皇女としてのお仕事は休んでもいいって。そう言ってました」
突然、アウレリアがそう言った。その声色から、真剣な話をしたいのだとすぐに察することができた。
アリスの内に吹いていた心地よい風が止んだ。
「聞きましたの、エルフリーデが何をするつもりなのか」
「――そう」
「嘘、ですよね? 世界中の人間を殺してしまうなんて、そんなの嘘ですよね?」
やはり聞いていたか。
いずれはこのことを話さなければならないと思っていた。鋭い子であるからいつかは気づくはず、ならばできるだけ早いうちにと思っていたのだが。
アリス自身から真実を聞かされるのと、人を介して知らされるのでは印象が違ってくる。怒っているのではないかと表情を伺ってみると、悲しみの中に、少しだけ希望を求める瞳である。痛みをこらえるように唇を結び、上目遣いでこちらを見ている。
握った手に力を込めるアウレリア。
アリスの手に汗がじわりと滲み始める。
「事実よ。私とエルフリーデは地上の人間を消して、新しい世界を創り直そうとしている。ヴァーミリオンはあと三ヶ月足らずで準備が整う。そうしたら光と闇、二つのエルレンディアの力を注げば全ては――」
「どうしてですの?」
アウレリアの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「そんな残酷なこと、駄目」
「私はそのために生きてきたから」
「そんなことありませんわ、あなたには別の生き方ができる。わたくしと来てください、もう誰も殺さないで生きる道を探しましょう」
嗚咽混じりの訴えであった。
アリスが口を開きかけたとき、突然アウレリアが胸に顔を押し付けた。
「いいえ、正直に言います。わたくしはあなたと離れるのが嫌ですの。あなたの創る世界にわたくしはいないのでしょう? いや、ですわ、いやいや、悲しいことを言わないで・・・・・・どうしてもやるというのなら、わたくしも一緒に連れていって」
「アウレリア」
「お願いですわ、アリス」
それはできない。エルフリーデはアウレリアを次の世界には連れて行かないだろう。
先延ばしにしていた答えを決めなければならないと思った。
マリアと生きるのか、アウレリアと生きるのか。
マリアと生きることを選べば、アウレリアは存在を消される。
アウレリアと生きることを選べば、心に愛という光が生まれ、闇のエルレンディアとしての力は失われる。ヴァーミリオンの起動には光と闇のエルレンディアの力が不可欠であるため、世界は改変されることはない。だがそうすれば、マリアには二度と会えないであろう。
「っは、っが、けほっ、がはっ!」
アリスは背中を曲げて咳き込んだ。
口元を抑え、ベッドから転げ落ちる。
「アリス!」
「こ、こないで」
震える足でなんとか立ち上がり、体を引きずるようにして洗面台まで歩き出す。
視界が揺らぐ。部屋全体がぐるぐると周り、まるで渦の中に放り込まれたようであった。揺れる体を支える足に踏ん張りを利かせ、ようやく洗面台までたどり着いた。
冷たい陶器に両手を乗せ、頭を下げると同時に喉の奥から粘ついたものが吐き出された。
見れば白い陶器は真っ赤に染まっている。口元を拭うと、手にはどろりとした血がこびりついていた。
「ふ、ふふっ」
笑えてきてしまう。エルフリーデの忠告を無視し、愛を育んだ結果がこのざまだ。
闇の力が愛を否定するため、体に深刻な影響が出る。
ふわりと体がのけ反って、しりもちをついた。タイルの床に倒れ伏したまま天井を見上げる。未だ視界の先は渦を巻いていた。
額に触れてみると、すごい熱を出していることが自分でもわかった。
「アリス!」
真っ青な顔で駆け寄ったアウレリアが、倒れたアリスを抱き起す。
「大丈夫ですの!?」
「来るなって言ったでしょ」
「あ、血が」
あまりに儚い声で、アウレリアの方が消えてしまいそうだった。
「お医者様を呼びますわ!」
「いいの、医者じゃ治せない」
「・・・・・・ひどい」
「え?」
「ひどいですわ、どうしてアリスばかり苦しまなければいけないの? こんな、こんなのってあんまりですわ」
無力な自分が悔しかったのか、同情してくれているのか。アウレリアは肩を震わせて泣き出してしまった。
――バカね、あんたが泣くことないじゃない。あぁあ、高い服なのに。裾に血がついちゃったじゃない、血はなかなか落ちないのに
アウレリアが涙してくれたおかげだろうか。アリスはどこか冷静で、まるで他人事のように状況を受け入れることができた。
自分のために誰かが泣いてくれるというのは、嬉しいものだった。
肩を支えてもらいながらなんとかベッドに戻った。
熱のせいか頭がうまく働かない。体調は最悪だった。
アウレリアは無言のまま、ハンカチで額の汗を拭ってくれる。
肌に触れてはならないと思っているのか、どこかおっかなびっくりの様子だった。
「そんな赤ん坊を扱うみたいにしてくれなくてもいいわよ」
「だ、だって」
あたふたとしながら俯いて、心配でたまらないといったふうに困惑の言葉を並べて。そんなアウレリアを見ているのは少し、いやかなり笑える。
「ぷふっ、なによその顔」
「っな!? 心配していますのに」
むぅっと頬を膨らませている姿は、ドングリを口に含めたリスにそっくりだった。
「あはっ、あはは」
無邪気な笑い声が口から零れた。
波に乗るようにして、感情に身を委ねてみる。このまま笑っていたい。そうすると今度は、朗らかに笑っている自分がおかしくてたまらなくなった。
アリスは笑った。むくれるアウレリアの髪を撫でながら、ずっと笑っていた。
何度目かの息を吸い込んだ時、あれほど苦痛だった体に力が戻り始めた。熱も徐々に引いていくのがわかる。周りを見てみるが、眩暈も消えて落ち着いたようだった。
手の甲で額の汗を拭い、安堵の息を漏らす。
――少しずつだけど、体が変わり始めてる。闇の力が光の力に変わろうとしてるんだわ
今は触れ合うほどに苦しみが訪れるが、やがてはそれもなくなる。そうすればアウレリアとずっと一緒にいられる。
「あの、これ」
アウレリアが差し出したのは銀色の指輪だった。
「なにこれ?」
「お母さまが、あなたの愛する人に渡しなさいってくれたもので――シェファー家が代々守って来た指輪ですの。お姉さまは多分使えないからってわたくしにくれて、それでずっと取っておいて。わたくしは女ですから、結婚は政略になるだろうって思ってて。愛してもいない人には渡せないって、絶対誰にも渡さないって思っていたんですけど」
アウレリアの舌がくるくると回る。聞いてもいないことを言って、話も支離滅裂だった。
相当緊張しているらしい。
それだけの覚悟をもって、指輪を見せてくれたのだろう。
「これをあなたに受け取ってほしいんですの」
目を力いっぱい閉じたアウレリアに差し出される指輪。
見ればアウレリアの左手。薬指には既に同じ銀色の指輪がはめられていた。暗い室内で、アウレリアの掌にある指輪だけが輝いて見える。
「アウレリア、あんたね」
「はい?」
「重すぎ」
「あ・・・・・・あっ」
ずーん、とアウレリアが項垂れる。
「冗談よ」
落ち込むアウレリアの顎を持ち上げ、唇を重ねた。
これでもかというくらいにキスをする。
その音と空気と、アウレリアの香りと体温と甘い声。
この子を失いたくない。もう誰も失いたくない。アリスは強くそう思った。
・・・・・・・・・・・
早朝。
まだアウレリアがベッドで寝息を立てているうちに、アリスは部屋を後にした。
もらった指輪はチェーンに通し、首から下げておくことにする。全てが終わった後で、アウレリアから左手の薬指にはめてもらおうと思った。
勇気をもらった。
寂しさも悲しさも、乗り越えられるほどの強い想いが心に湧きあがりつつある。
アリスは指輪を握りしめながら、軽やかな足取りで廊下を駆けていった。




