黄昏の道
何年振りかで戻って来た私の家。なにもかも出て行った時のままだった。
家は領主に返していたからとっくに人が住んでいるか、或いは恨みを持つ村人たちに燃やされているかと思っていたが。少々、気抜けするほどであった。
引き戸を開けて入ると、がらんとした空洞の中に立ち入ったようであった。家具は全て売ってしまったので、目につくのは囲炉裏やかまど、畳と障子くらいである。
「ぼろい家じゃのぉ」
「わーい、アヤメちゃんの家!」
私より先に天姫様とルリが草鞋を脱いで上がる。
草ぶき屋根に土壁の家は私と母が暮らすにも狭かった家が、三人も揃ってしまってはなおのことだった。
「おいルリ、畳に虫がわいてないか見てくれんかの。刺されるのは嫌じゃ」
「モノノケ三人集まれば、獣も虫も逃げ出すと思うけど? っていうか天姫様虫に刺されるんだね」
「無論じゃ、蚊や蚤はわらわの甘い血を求めてくるのよ」
天姫様は苛立ち気味に胡坐をかいて、畳の節目に目を凝らしている。
「えへへ、アヤメちゃんここで育ったんだ」
ルリは上機嫌で物珍しそうに周囲を見渡していた。
「ああ、何もかも私が去った時のままだ」
死神の住んでいた家など誰も住まず、取り壊すこともどこか憚られたのだろう。
障子を開け、そこから庭に降りた。
小さな庭には母が植えた山百合や花菖蒲があり、それらは今でもきちんと蕾をつけて頭を垂れている。花期がくれば、鮮やかに咲くだろう。
黄昏時の日が降りて、そよぐ風もそのようなものであった。
かつては母がこの時間に夕げの準備に取り掛かっていたのを思い出す。
「腕は馴染んでおるか?」
見れば縁側に天姫様が立っていた。両腕を組んで目を細め、私の左腕を見ていた。
肘から先は黒一色に染まり、表面からは何か濛々と炎が躍るような陽炎が立ち上っている。
「はい、自由に動かせます」
妙な見た目以外は常の左腕と何も変わらず、思い通りに動かすことができる。
「まだ羽化していないようじゃ。どれ、ぬしの腕について話しておこうかの」
天姫様が腰に差していた刀を引き抜き、私に放ってよこした。そうして、右手を前にかざして見せたのである。
「わらわの右腕、刀で斬ってみろ」
「え」
「遠慮はいらん、思いきりでよい」
刀を手にたじろいでいると、声が鋭さを帯びた。
「早くせんか」
その声色から何か思惑があることが伺える。力の限り斬りつけたところで問題はないのだろう。
柄を握る手に力を込める。刃に浮かぶ波紋が怪し気に輝いていた。
「参りますよ」
夕暮れの中に小さくため息を残し、天姫様の右腕めがけて刀を振り下ろした。刃先が肌に触れたその刹那、ガンと弾かれて刀はあらぬ方向へ跳ね上がった。飛ばされぬよう柄をしっかりと握りしめていたため、体が大きくのけ反ってしまう。そうして二三歩よろめいた私は、恐れのあまり声が出なかった。解放もせずに刀を生身で弾き返すなど、信じ難いことであった。
「見えておらぬじゃろうが、今わらわの右腕は力で覆ってある。強度は戦車よりもあるぞ」
目を凝らしてみるが、裾から伸びる白い手にはなんの変化もない。ただの少女のか細いものにしか見えなかった。
「このような力を霊力と呼ぶ」
天姫様が言う。
「普段は体の奥で眠っておる力じゃ、多くの生物はこの存在に気づかずそのまま生涯を終えておる。しかし才ある者は違う、いち早く霊力を目覚めさせ大いに活用する。未来を見通し、千里を一瞬で駆け、波動をもって他を吹き飛ばし、生身の体で鋼鉄を穿つ。そういった恐るべき力じゃ、お前が戦ったエルフリーデにもこれと似た力がある」
エルフリーデとの戦いの記憶が蘇る。人間を瞬時に無力化し、物体を思うままに動かし、雷すら生み出した。
「エルフリーデのあの不可思議な力は」
「あやつの場合、霊力とは違うがな。まあ、似たようなものじゃ。要するに生身で対抗できる相手ではない」
天姫様は手に込めていた力を解き、呆けている私から刀を取って腰に戻した。
そこで思い当たる。私はエルフリーデを倒さなければならない、そのためにはこの力を身に着けるのが必然。ならば――
「ならば天姫様は私にその力を授けて下さるのですか?」
「いいや違うな。霊力は鍛えれば膨れ上がる体力や筋肉とは違う。魂や血が優秀な者達の間でのみ開花する力なのじゃ。稀に精神と肉体の鍛錬で霊力をこじ開ける者もおるが、悠長にそんなことをしていると世界が終わってしまうからな。そこでこの左腕じゃ」
私の左手を掴む。
「お前の父はなかなか良い贈り物をしてくれたようじゃの。この手の力を感じるか?」
「わかりません。ただ、邪悪なものであるということはわかります。父が私にくれたものですから」
「そうか」
かかかっと笑う。
「これは霊力の塊じゃよ。形を変えて手になってくれているが、相当な力を宿しておる。清玄め、なんやかんやで娘可愛やじゃ」
「どういうことですか」
「なんじゃ親父から聞いておらんかったのか? 貴様ら霊猫一族は祖先の霊を守護獣として体内に宿す。守護獣は代々、当主にのみ受け継がれるのが慣いじゃ。一子相伝の秘儀じゃからの」
「当主」
「そうじゃ・・・・・・親父から認められたようじゃの」
天姫様の言葉は穏やかであったと思う。
親に認められたということは元服を意味する。私を労ってくれたのだろうが、少しも嬉しくはなかった。
人の愛を否定し、数々の下劣な行いをしてきたモノノケに認められたなどと腹が立つだけだ。
父の笑い声が頭蓋の奥で蘇る。
かつて父が母にしたのと同じことをお前はしたのだ、そう言って笑った。私は何も言い返せなかった・・・・・・その通りのことをあの方にしてしまったから。
「そう苦い顔をするものではない、傷も癒えて力も手にしたのじゃから万々歳じゃ」
天姫様はふさぎ込んだ私の額をちょんと指先でつついて言った。
「危険が伴う力なのでは? 私ではなく周囲の人を巻き込んだら」
「それはぬし次第じゃろ」
鋭い眼差しであった。
「ともかくその左手から先祖の霊を出せれば対抗できるというものじゃ」
「対抗と・・・・・・では! これがあればエルフリーデと渡り合えるというのですか!」
「慌てるでないわ。困ったことにまだ眠っているようじゃ」
「眠っているって」
「そうじゃ。今はその方が良い。あまりに強大な力じゃからの、急に突いて起こせば暴れ回り、宿主すら喰い殺すじゃろう」
「私は平気です! 一刻も早くこの力を使いこなして」
クリステル様を助けることができる。そう思った私は止まれなかった。
焦燥からか無意識に声が大きくなり、天姫様に掴みかからんばかりの勢いで食いついた。
力んだ手に気づいたのは、鋭くこちらを睨む天姫様の目を見た時であった。
「モノノケの力に呑まれ、第二段階の解放をした奴が吠えるでない。よいか、エルフリーデと戦う機会は何度もない。失敗は許されんからこそ、お前の力を盤石なものにしておきたい・・・・・・この力を使いこなしたいか?」
「はい!」
「いい目じゃ」
「私は――お護りしたい方がいるんです。クリステル様はきっと私のために苦しんでいる、魔物を植え付けたことを恨んでいるかもしれない。それでも助けたい!」
口から洩れるのはフーッフーッ、とまるで獣の息遣いであった。
「どんな試練にも耐えるか?」
「耐えます!」
「何を言われようと反論はなしじゃ」
「無論です」
ややしつこく聞いてくる天姫様に苛立つ。あの方のためならどんな試練にでも耐えられる。頑とした決意を込めて目を見開いた。
ふっ、と笑みを零した天姫様は座敷にいるルリを手招きする。
「ではまず飯じゃ。体力をつけた後、冷水で体を清める。この錆びれた村にも宿屋くらいはあるんじゃろ? それと着替えろ。着物が血なま臭くてかなわん」
「はい、しかし――」
私の言葉を待たずして「行こうかの」と言って歩き出してしまった。
すぐさま試練が始まる、と身を硬くしていたのにいささか拍子抜けである。
ぐっと奥歯を噛みしめる。
クリステル様が捕らえられているのに悠長な。
「天姫様! すぐに始めてください!」
「ぬしも疲れておるじゃろ、休養も大事じゃぞ」
「私は平気ですから!」
「わらわが空腹なんじゃ」
「っく」
硬く握った拳に、小さな柔らかい手が触れた。
「アヤメちゃん行こ」
ルリがぎゅっと腕に抱き着いてきて、そのまま引きずられるようにして歩き出した。
「おいルリ」
「天姫様の言う通りだよ。ご飯食べて少し休まないと駄目、焦りは禁物」
「時間が惜しいんだ。放せ――」
途端に大地から根が飛び出し、足に絡みついた。
「・・・・・・なんの真似だ」
ルリの赤い瞳が光っている。解放した彼女は半眼で私を睨んでいた。
「アヤメちゃんはすぐ焦る。そういう時は周りが見えてない。弱った体でその根を解ける? あたしが敵だったらどうするの?」
「ふざけるな」
解放し根を吹き飛ばそうとした瞬間、ルリの短刀が喉元に突き付けられた。鋭い刃は驚くほど速く鞘を走っていたのだ。
「ほら、勝負あり」
体に震えが走るほど見事な腕前。腹に力を込めて震えは抑えたが、動くことができなかった。
「体が万全だったらこんなことになってないよ。落ち着くことも大切、クリステルさんも同じことを言うと思うな」
ルリが短刀を収めると、足を拘束していた根は土に還っていく。
「行こう」
笑顔に戻ったルリが私の腕に抱き着く。
そうして再び私たちは歩き出した。
ルリが一瞬だけ見せた殺意を感じ、頭に上った血は冷え切っていた。そうして冷静になってみると、自分が子供のように駄々をこねていたのだと気づく。
急いては事を仕損じる、とはよく言ったものだがそれを妹のようなルリに諭されてしまうとは。不甲斐なさから眼を伏せるしかなかった。
家の門を抜けると、赤々とした夕日が山にかぶさっていた。東の空を見上げると、白く輝く小さな星が点々とある。クリステル様はまだ無事でいてくれて、こんなふうに空を見上げているのだろうか。そう思うと、胸の奥がずきずきと痛み出した。
体を擦り寄せてきたルリが、腕を撫でてくれた。
「ごめん、あたし護れなかった。でも次は違うよ、エルフリーデはあたしが殺す」
密着しているからだろうか。ルリの体の奥で、並々ならぬ怒りが滾っているのを感じる。彼女もまた私と同じように無念に歯噛みしているのだ。
「ねえ天姫様」
「お? どうした?」
腕を組んで歩いていた天姫様がこちらを振り返る。
「あたしも強くなりたい」
「無論じゃ」
白い歯を見せて笑う。
ルリも微笑んで、小気味よくぴょんと跳ねた。
「すまなかったな」
「ん?」
「お前の言う通りだ、私が悪かった。しっかり休んで、強くなる」
「ねえアヤメちゃん。だいたいの話はさっき天姫様から聞いたから察してるんだけどさ」
ルリがはたと足を止めて言う。
「アヤメちゃんのお父さんは失敗したんだよ」
「なにがだ?」
「だって、アヤメちゃんのお母さんに魔物を植え付けたんでしょ? 生まれてくる子は鬼子のはずだった。でも、そんなことなかった。アヤメちゃんは人を殺すことが怖くて、傷つけるのも嫌なんだもん」
「・・・・・・」
「モノノケから生まれるものが邪悪とは限らない。アヤメちゃんとクリステルさんの子だよ? ぜったいに悪い子じゃないよ」
「ルリ・・・・・・」
乾いた声が漏れた。
それまではなんの兆候もなかった。
後悔ばかりで自分を責めることしかできなかったが、ここに来た途端ダメになった。
喉の奥が熱くなって、体が固くなる。
なんとか息を吐きだしたと同時に、涙が零れ落ちた。
「取り返しのつかないことをしてしまった」
口に出して言ってみると、涙がますます溢れてくる。胸の奥にあったものが一気にこみ上げた。
「ごめんなさい、クリステル様」
遥か彼方にいるクリステル様に謝った時、初めて罪を認めた気がした。
っひっひ、と嗚咽を隠しもせず、零れる涙を拭いもせずに歩く。
子供の頃も皆にいじめられたのが悲しくて、今みたいに泣きながらこの道を歩いた。
「そんなことないよ、そんなことない」
ルリに頭を撫でられながら、私は歩き続けた。




