悪い予感
あまりに強大な力を持ち、人の手では太刀打ちできないモノがいる。人々はそれらを神と崇めた。否、崇めるしかなかった。強大すぎる悪も、度が過ぎれば神となる所以である。
ではその神の力を宿した者を、果たして人と見ることができるだろうか。
7年前。桜花国、皇歴1928年。
人里離れた山奥に住む親子がいた。その一族は山に住む神の力を受け継ぎ、生まれながらにして万物と心を通わせることができたという。
この者達を下界に降ろすのは危険極まりない、と桜花国の要人は考えた。一族の住む山は指定隔離地域とされることになる。桜花軍の庇護を受けるという名目で実際は幽閉されていたに近い。
ルリはその山で育った。
彼女が森に話しかけると、応える様にして満開の花が咲いた。
「お母さん、見て見て! お花が咲いた!」
それを見せると、母は決まって頭を撫でてくれる。
「ルリは本当に凄いわ。おまけに賢くて優しくて、私の自慢の娘よ」
「えへへ、そうかなぁ」
「そうよ、世界一の娘だわ」
滑らかな母の手に撫でられると、胸に飛び込みたくなる。むぎゅっと抱きしめると、母は甘えんぼさんねと困りながらも抱きしめてくれた。柔らかい肌と、甘い花の蜜の匂いを漂わせる母が大好きだった。
そして、時代が変わる。
戦争が始まろうとした時、一族の元に招集礼状が届いた。戦が始まればモノノケの力を宿す者が重宝されるのは当然のことだった。だが、外界と遮断された一族にとって桜花国の戦争など、遠い異国の出来事と同義であった。国のために忠を尽くせ、ということが理解できないのだ。
出兵を拒否した母は軍に連行され、それきり会うことはなかった。
母はモノノケの力を人に向けることを嫌っていたから、軍はそれを見抜いてひどく痛めつけたのだと思う。
軍に引き取られ、人殺しの訓練を積んだルリは悟った。
母は暖かく、夢見がちな人だった。そんなことでは生き残れない。世界は自分が思っているほど都合よくできてもいないし、優しくもないのだ。生きる場所は自らの手で掴みとるしかないのだ、と。
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はっとして目が覚めた。
薄暗い部屋の天井が映り、次に湿った匂い。今は夜で、雨音のしないことから既に雨が上がっていることを知る。
「ルリ?」
呼びかけても応える者はいなかった。
体を起こそうとすると、すっくりと力が入る。眠ったことで体力もいくらか回復したようだった。ほっと息を付き、壁に立てかけてある刀を腰に差した時、テーブルの上に水の入った瓶と置手紙を見つけた。
少し離れます、今日中には戻るからアヤメちゃんはゆっくりしててね
傍に鉛筆があることから、書置きはこの部屋で書いたものだということがわかる。いくら疲労していたとはいえ、ルリの帰りに気づけなかったとはよほど深い眠りについていたらしい。
「迂闊に動き回るなと言ったのに、どこへ行ったんだ」
窓を開けて街道を見回すが、ちらほらと人の影があるだけでルリの姿は見えない。夜の闇の中、湿った風が流れ、遠くからさざ波の音が聞こえた。黒一色の世界を見ている時、胸の内にもやのようなものが浮かんでくる。
ルリはどこへ行ったというのか。昼間はあれほど纏わりついてきたというのに、夜になって姿を消すというのはどうにも解せない。
彼女の身に何かあったのではないだろうか。
硝子窓に映った私は不安でしかたがない、といった顔をしている。
いてもたってもいられず、部屋を後にした。
走ってホテルの受付まで行くと、白髪の少女を見なかったかと尋ねる。
「ああ、そうですね。雨が上がった後くらいに出て行ったような気がします」
「それは何時くらいだ」
「雨が上がったのが夕方だったかなあ。いや、まだお日様が出てたから、ええと、夜ではなかったと思うんですけど」
要領を得ない。
夕方に出て行ったとすれば既に数時間は経っている。やはり何かあったのだ。
「もし白髪の少女が戻ってきたら伝言を頼む。今から二時間後には戻るから部屋にいてくれ、と」
「あ、はい。いいですよ」
受付の返答を背中で受け、外に出た。
周囲を見回したが、やはりルリの姿はない。雨でぬかるんだ地面は滑りやすく、泥が生き物のように足にへばりついてくる。
生温い空気にルリの残り香を探すが、雨のせいで鼻が効かない。
もう自分のために誰かが犠牲になるのは嫌だ。
私は走りだしていた。