嵐の前
圧縮された熱気とべっとりとした潮風のせいで、町は風化したように褪せている。建物は母国にあるそれとは異なり、色彩や明度というものがないのだ。
雨と潮風に晒されたせいか、塗装がはがれている建物は灰のように白い粉を吹いているのが目立つ。おまけに生臭い香りが常に漂っている始末である。
色あせた灰色の街並みは何もかもが無機質だ。この景色は砂浜に打ち上げられていた珊瑚の死骸と何ら変わらないように思える。
それでもルリは満たされていた。
アヤメが傍にいる。彼女と一緒なら世界の果てでもかまわない。
今は愛しい人のために水を買いに行くところ。この国は桜花と違い、水を飲むのにも金が必要である。川の水は菌類や有害な物質で溢れているからだ。
白髪と白い着物を纏ったルリが道を歩けば、町の人達がぱらぱらと振り返る。桜花人の余所者が歩けば、道行く人は半ば儀礼的に振り返る。可愛らしい異国の少女は注目の的であった。
ルリは絡みつく視線を縫って一軒の商店へ足を踏み入れた。
昼間でも薄暗い店内には、中年の男が気怠そうに番をしていた。脂肪でだらしなく膨れた体の男は、ルリを一瞥すると薄ら笑いを浮かべる。よからぬことを企む人間が見せる、品のない笑顔であることにルリは気づいた。
飲料水7リレ(ビレでの通貨)と表記された大瓶を手に取り、中年男に会計を頼むと、「70リレになるよ」とキャバリア語で言われる。
やはりきたか、と思う。
島国である桜花は大陸との関わりがないため、ほとんどの人が母国語しか話せない。それを知る者は、複雑な異国語を駆使してこのような悪どい商売をする。
キャバリア語で責め立てれば、生真面目な桜花人は納得して言われた金額を支払うことを知っているのだ。
「値札には7リレって書いてあるけど」
流暢なキャバリア語でルリが言うと男の顔が曇る。
桜花の軍人は数カ国語の習得が必須であった。戦場で敵国の言語を理解できれば、優位に立てることを知っていたためだ。そのおかげで男のボッタクリはルリに通用しない。
「あんた桜花人だろ?」
「それがなに?」
「桜花人は異国の文化ってもんを知らないから困る。7と書いてあったらそれは70ってのがここでの常識なんだよ」
無茶苦茶な理論だが、後に引けなくなった男は語気を強めて言った。
「嘘。さっきホテルでも代金を払ったけど、そんなことなかった」
「お嬢ちゃん、宿屋と店は値段の書き方が違うんだよ。知らないのかい」
面倒くさい奴、とルリは呆れてしまう。
よくよく考えれば一目で桜花人と見て取れる服装で来たのが間違いだった。現地の服を買って悟られないようにすればよかったが、アヤメのことが心配で頭が回らなかった。ここにきて反省したところで、もはや後の祭りである。
この町に水を売る店はここしかない。港町まで引き返せば他にも店はあるだろうが、今からでは時間もかかるし、帰り道に雨に降られるかもしれない。
「買わないのなら瓶を棚に戻して帰りな」
男はシッシと虫を払うような手つきで、瓶を抱えた少女を遠ざけた。
「俺は忙しいんだ」
嘘をつけ、暇そうにしていたくせに。
ルリが朱い瞳で睨むと、男はただならぬ気配を感じて身をすくめた。
「な、なんだ薄気味悪いガキだな。文句があるなら出て行け」
恨みや怒りを孕んだ小さな少女は、肩を震わせて唇を噛みしめた。
「あまり関心しませんね」
その光景を見かねたのか、一人歩み出る者がいた。
ルリが目を向ければそこには外套を目深にかぶった少女がいる。顔は見えないが、『少女』とルリが思ったのは、熱情を帯びながらも柔らかな声質と、腹部の前で組んでいる手が白く小さかったためである。その手は真珠のように艶やかであり、細い指は花の茎のようであった。男児でこのような美しい手を持つ者はいない。
ゆっくりと動き、ゆっくりと喋る。心の焦りを感じられない動作。この容姿と立ち振る舞いは貴族のものであるとルリは思った。
「お、お嬢様。いけません」
歩み出た少女を制する小柄な少女。彼女も同じ外套を身に纏っている。
「ここでは目立つような行動は控えねば」
「わかっています。でもねピア、どうしても見過ごせないこともあるの」
「し、しかし」
「この子の言う通り、値札には7リレとありますよ。あなたも生活があるのでしょうが、こんなやり方で利益を得ても一時のものでしかありません」
ピアと呼ばれた小柄な少女は蒼白になり、あわあわしながら主の袖を掴んで引き留めようとしているが、歩み出た少女は構わずに続ける。
「意地悪をしないで売ってあげなさい」
「なんなんだあんた」
桜花人を擁護する少女に男は気圧されている様子だ。
「これは商売の話だ。あんたには関係ないだろう」
「商売は双方に信頼と敬意がなければ成り立ちません。今のようなことを続ければ、やがて失墜することは明白です」
「あ、あんたなあ俺に説教たれようって言うなら――」
「そのようなつもりはありません。ただ、こんな話を聞きました。ビレに住む一人の少年の話です。彼は水を買うお金がなくて、仕方なく商店から盗みを働いたことがある。衛士に捕まった少年を店の店主は咎めず、水を与えた。優しさに触れた少年は何よりも民のために力を尽くすことを誓った」
「そ、それは」
「少年は今やビレの王となりました。皆が理想とする国を築くため、民に身を捧げる。素晴らしい考えであると思います。あなたもビレの民であるのならば、見習わなければならないのではありませんか?」
気付けば全員が少女の言葉に呑まれていた。純真でひたむきな少女の言葉は、全員の心を引き込んでいたのだ。
「7リレだ」
色濃い反省のため息を吐いた後、男が言った。
外套を纏った少女は店主に深々と頭を下げると店を後にした。
店主もルリもぽかんと口を開けて、呆然としばらくその場に佇んでいた。
「悪かったな」
男の言葉に我に返ったルリは、支払いを済ませると慌てて少女を追った。
「ま、待って」
少女が振り返る。周りには同じ色の外套を纏った者が三人。「お嬢様」と呼ばれていたあたり、護衛か付き人であると察する。
「ありがとう」
「いいえ、私こそ出過ぎた真似をしてしまいました」
少女はルリに一礼を捧げると微笑んだ。
「さあ、早く水を届けてあげてください」
「え?」
「あら、違いましたか」
「う、ううん。この水は大切な人のために――どうしてわかったの?」
「あなたの顔を見て、誰かのために懸命な人だと思ったんです。私もそんな人に助けられたことがありますから」
口元しか見えないのに、優しい笑みを浮かべていることがわかった。
桜花国でルリに微笑みかける者は、心に邪なものを潜めていた。ルリを利用し、自らの手柄にせんと企む者の笑みは怖気が立つほどに見苦しい。
だが、目の前の笑顔は。例えるなら純真無垢な者が見せる人懐っこいもので。
そうしたものに慣れていないルリは、思わず反射的に微笑み返し、頭を下げてしまった。
そんな笑顔は両親やアヤメ以外から向けられたことがなかった。
「それじゃ、あたしはこれで」
早くアヤメに水を飲ませてあげたい。ルリがそう思った時、一陣の風が吹いた。
その風は、少女の外套をはだけさせた。
ルリは見た。
透き通るような白い肌、こめかみから垂れ下がる金色の髪は陽よりも輝き、愁いを帯びた紺碧の双眸。稀有な美貌と清楚を併せ持つその姿を見間違うはずもない。
暗殺の対象であるヴェルガ国皇女、クリステル・シェファー。
アヤメの心を射止めた憎き女。それが突如として目の前に現れたのである。
ヴェルガにいるはずの彼女がなぜビレにいるのか。運命の巡り合わせと言うには、あまりにも都合がよすぎる事態だ。ルリの心は一瞬でかき乱される。
動揺を隠せず指先が震えた時、ルリの瞳に流星の如く怪しい光が走った。
やがて底気味の悪い笑みを彼女は浮かべた。
動揺は数秒にも満たなかった。軍人である彼女はいかなる事態も肯定し、最善を尽くすように鍛えられている。
今は思慮など無駄。ただ目的のために最善を尽くせばよいのだ。
吹いた風には雨の香りが含まれていた。
アヤメの言った通り、午後は大雨になりそうだ。