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皇女の猫【抑制版】  作者: WAKA
アヤメ篇
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出会い

数ある作品の中から「読んでみよう」と思っていただき感謝いたします。


ずいぶん前に書いていたものを少し修正して投稿しています。


お気に召しましたら、今後ともお付き合いください。

桜花国、皇歴1935年


首都から九里ほど離れた寒村を歩く乙女がいた。

明け方のことである。まだ薄暗く夜気の湿った空気が残る道で、アヤメは激しい後悔の念に襲われていた。


昨晩。月の影が研いだ刃の如く輝く夜に、アヤメは亡き友人の家を訪ねていた。

先の大戦で同じ部隊に所属していた彼女の死を看取ったのは自分である。故にその最後を伝えるため、友人の両親を訪ねたのだ。


「あっ!」


 アヤメを見た夫婦が思わず悲鳴を上げた。


「夜分遅くに失礼いたします」


 そう言って頭を下げた少女に、夫婦は揃ってぶるんと震えた。


 アヤメは人にあらず。闇を孕むモノ、影の具現化、人を殺める死神。


 このような噂はいたる所で囁かれ、それは当人の耳にも入っていた。

 己の悪い噂を聞いても、アヤメの感情は動かない。むしろ大方その通りであると理解していた。

 しかし、友人の両親が顔を真っ青にしたのを見て思わずどきりと胸が跳ね、背筋が寒くなる感覚を覚えた。


 友人はアヤメをかばって撃たれた。胸に開いた風穴から噴き出た血が陽の光で燐光のように煌めいて、辺り一面に赤い雨を降らせた。そうして体から絞り出された血だまりへ仰向けに倒れた。死した友はじっとアヤメを見つめていた。


 お帰り下さい、どうか、どうか。


 アヤメは頭を下げる夫婦に一切の会話を許されなかった。一言二言告げようとするたび、夫婦は頭を下げて懇願するのだ。

 お帰り下さい、お国からは充分な慰霊金をいただいておりますので、どうか。

 私達ももう思い出したくはないのです、戦争は終わりました、どうかお帰り下さい。


 アヤメは地に伏して頭を下げた。そうして立ち上がると、夜の道へ消えて行った。


 夫婦は去って行くアヤメの背中を見ていた。

動きやすいよう丈が短く太ももが露わになる作りの緋色の着物。これは桜花国異形対策猟兵部隊の正装である。夫婦は去りゆくアヤメの姿を亡き愛娘と重ねあわせた。黒布の上着をはおり、冷たい月の光を浴びて小さくなっていく背中。それはあまりにも哀しく、そして辛そうに思えた。



「やはり会うべきではなかったか」


 私は誰に言うでもなく、そう呟く。

 周りにいた人はみな死んでしまった。家族も友人もいなくなったのに、私だけが生き延びる。親しい人の死。望まずともそうなる、これは変えようのない運命なのだ。忌子とした生を受けた私の抗いようのない日々は拷問と同じだった。


 私が特異な存在であると母から聞いたのは九歳の頃である。

 世界の二大大陸である所のレガール大陸とユナ大陸は海を挟んで対立しており、両国の中心に位置する島国がアヤメの住む桜花国であった。



十年前にレガール大陸の某国の派遣調査員は桜花へ訪れた際、文明なき弱小国であると評した。桜花は島国であるが故、これまでほとんどといって言いほど他国との関わりがない。文化水準が先進国に遅れをとっているのは仕方のないこと。


森と水に囲まれ、自然と寄り添って生きるのが人としての在り方と桜花人は理解している。太古からこの地に住まう神々の怒りを買わないため、そうすることが賢明であると知っていたのだ。

だが、時に人と神々はいがみ合う。


アヤメのいた村は炭鉱を生業としていたが、或る時地中深く眠っていた霊猫を起こしてしまった。三十尺はあろうという化け猫は村に呪いをかけた。一人、また一人と病気や事故で死人が出た。

この祟りを鎮めるため、ある少女が生贄に選ばれた。その少女こそ、アヤメの母である。


村人たちは少女が霊猫の住まう穴ぐらへ行ったきり帰ってこないものと思っていた。しかし翌年、少女は村に戻ってきた。そして誰に触れられたわけでもないのに身籠り、一人の赤ん坊が生まれ落ちた。


赤子は一声も発せず生まれ、産婆の目をまっすぐに見据えた。霊猫の住む山からどーん、と地響きがして、それきりしんとなった。

村人が不慮の死を遂げることはなくなったが、アヤメと親しくした者は例外だった。

モノノケのアヤメ、近づいたら黄泉へ引っ張られるぞ。村人はそう囁いた。


『もういやじゃ、私は死にたい。誰が死ぬのも見とうない』


 次々と溢れ出る涙を手の甲で拭いつつ、幼い私は母に言った。母は私を抱きしめて背中を撫でてくれる。


『辛いか、そうかそうか』


その時の母の顔にぎょっとした。目を大きく開き、恍惚として微笑んでいたのである。


『これが呪いであれ、私は嬉しい。アヤメ、お前は人の命を吸い取ってでも生きていく。これからは人が傷つけあう時代に変わる。それでもお前だけは生き残ってくれる。私の宝物――生きて、生き抜いておくれ』


 そう言った母も今はいない。

 身寄りのない私は軍部に拾われ、今日に至る。

 記憶の海から意識を戻すと、東方から昇る朝日に頬が赤々と照らされていた。夜通し歩いて、今は人の目のつかない田舎道に一人きりだ。

 未だ冷気を孕んだ空気を吸うと、草花の香りが染渡った。


「何用か?」


 アヤメは腰の刀に手を当て、草むらへ声を掛けた。


「貴殿らがずっとつけていたのは知っている。私には血を呼ぶ殺気がある。用がないのなら離れた方が良いぞ」


 その言葉に草むらから三つの影が躍り出た。アヤメよりも背丈が高く、体格のいい男達は桜花の軍服を着ていた。


「戦争は終わったからな――用済みで厄介者の私を始末しに来たか?」

 アヤメの問いに隊長と思われる男が首を振った。


「実力を確かめるため、けしかけても良いと言われていたが不要であった。この三カ月間、アヤメ殿に招集礼状をお渡しするためずっと探しておりました」

「招集? なんだ、また戦争でも始めるのか?」

「この議に関してはお師匠様と。我らも何も知らされておりません」

「お師匠さま?」


 私に剣術を叩きこんだお人だ。あの方だけは私を怖がらなかったものだが、と昔を思い出す。



そのような召集を受けた三日後。

 土と枯れ葉の上を回転していた車輪は、いつしか舗装された道の上にあった。ぬかるみに嵌ることもなければ、石に乗り上げることもなくなったので、外を見なくとも石畳の上を走っていることがわかる。

馬車に乗ったのは生まれて初めてだった。搭乗した時は物珍しくてキョロキョロと内装を見回したが、同乗者に笑われたので今は大人しく坐していることにする。


「窓から外を見てみるといい」


年配の師の提案に「このままで結構」と私は辞退する。


「意地をはるな。もう馬車に乗ることなどないかもしれんぞ?」


その言葉に私の心は揺れた。窓に流れる景色を切り取り、いつまでも心にしまい込んでおかなければ損な気もしてきた。


「べ、別に馬車くらいまた乗れます」

「つい笑った・・・・・・お前の目が光るのを久しく見ていなかったからな。すまなかった」

「いえ」


馬の蹄が鳴るごとに景色は過ぎ去り、木漏れ日が目に沁みる。下を見ればいつもより地面が遠く、木の枝からこちらを覗きこむリスとは距離が縮まっていた。

不意に自然の景色は途切れ、文明が現れた。馬車よりも大きい門をくぐり、庭園を抜けて行く。人が作り上げた自然との調和。整えられた庭園に感嘆の声が漏れそうになる。ありのまま乱雑で、鋭さの残る軍学校の庭とは大違いだった。


「アヤメ」

「はい、お師匠様」

「お前はヴェルガ人に個人的な怨みがあると思う。そうだな?」

「私は軍人です。命令に私情は挟みません」

「隊の仲間を殺されたのは事実だろう?」

「大丈夫です」

「ふむ・・・・・・ヴェルガ国との友好は既に決められたこと。くれぐれも軽はずみな真似は控えるがよかろう。お前が同盟国の客人に刃を向けた時、桜花人全ての意思であると捉えられることを忘れるな」

「心得ました」


 世界は大きく揺れていた。小国と評されていた一国が大陸の国々をことごとく吸合し、今日の繁栄を築いた。これを知るや大陸では領土を巡って数多の国同士が戦争を始めた。


桜花国がこれまで戦争を回避してこられたのは、大陸ではなく島国であるという理由に他ならない。海に囲まれた島国では、往復だけでもかなりの時間と金を浪費してしまう。しかし戦争の規模が世界大戦にまで発展しようとしている今、とうとう桜花にもその兆しが見え始める。



今から二年前の出来事である。レガール大陸にあるヴェルガ国があまりにも強引に、桜花国の海域を制限し始めた。和平を望む桜花をヴェルガはほぼ無視し、横暴にも小さな島国の海域へ数百の戦艦を配備したのだ。


止む無く開戦となったが、ヴェルガの戦艦百五十隻に対し、桜花の戦艦は四十に満たなかった。勝敗は既に決しているも同然。


世界で唯一、桜花の国民だけは勝利を信じて疑わなかった。心から染みだした強い思いが肉体に刻み込まれ、精神と肉体を極限まで高めた桜花人は強かった。


生真面目で忠実な桜花人特有の性格は、戦場においても活かされた。上官や仲間の体が弾け飛んでも、誰一人として持ち場を離れる者はおらず、最後の一兵になるまで戦い続けたのである。



驚愕したのはヴェルガの兵士達だ。戦艦の船底に穴が開けばすぐさま船を放棄する自分たちと違い、桜花の軍人は敵前逃亡などせずに尚も立ち向かってくるのだった。


もともとヴェルガの国内では戦争に関して支持派と反対派が対立していたため、内乱が相次いでいた。国力の維持が難しくなったヴェルガ国は桜花国と講和条約を結び、二年間続いた戦争は終わった。


他国にはこれ以上の干渉をさせたくない桜花と、乳児と思っていた国が虎へと変貌したことに脅威を感じているヴェルガの関係は張りつめられた糸のようなものであった。



「戦争やら侵略やらの話は忘れよう。我らは与えられた任を全うすればよいのだ」

「はい、お師匠様」

「ちなみにお前が警護するヴェルガ人は戦争に反対派らしいぞ」

「気にしていませんので」

「うむ。お前には期待している、心して務めてほしい」


 師が人を褒めることは滅多にない。聞き違いかと思い、見返してしまったほどだ。


「お前はどこか死に憧れているように見えるが、そんなものに神聖さを覚えて桜花の花を咲かせる必要はない。これまでの任務でお前を疎む者達がいるのは知っている。だが私はお前の技量を買うぞ。妙な噂話など気にするな、心して任務に挑め」

「お師匠様・・・・・・しかと」


 師範にこんな言葉をかけてもらえる人は、指で数えるほどしかいないだろう。まだ私を必要としてくれる人がいて、それが尊敬している師であることが嬉しい。昂ぶった私は耳まで朱色に染まった顔を見られたくなくて、再び窓の外を見て誤魔化すことにした。


 馬車は既に停車していた。外に出ると目を二つ使っても視野に入れられないほどの屋敷が目の前にあった。後ろを見れば先ほどくぐった門がはるか先に見える。御腰の物をお預かりいたします、と屋敷の執事と思しきヴェルガ人に言われる。師に睨まれたので、私はしぶしぶ腰に差していた刀を預けた。


「私は館の主に会ってくる。お前はお姫様に挨拶しておけ」

「はい」


 執事に誘導されながら長い廊下を歩いた。飾られている絵画や石像は高価なものなので、手を触れるなと注意を受ける。初めて他国の芸術作品を見て、うなじにぞわりと冷たいものを感じながら進む。やがて行き着いた扉を執事が数回ノックした。奥からは細くかすれた声が聞こえた。


「失礼します」


 礼儀作法などは師の助言からしか学んでいないので、私は少し緊張しながらも扉を開けた。


「桜花国異形対策猟兵部隊所属のアヤメと申します。本日はお招きいただきまして光栄でございます」

「いらっしゃい」


 一礼を終えた私はここで初めて相手を見た。

白いドレスに身を包んだ少女。ブロンドの髪がほっそりとした腰まで伸びており、窓から入る陽の光を受けて、金色の光をより強く放っている。白い肌がより際立って見えるのはそのためだろう。


私は多くの言葉を知らないので、気の利いた言い回しは思い浮かばないが、名声ある詩人でも表現に苦しむに違いない。いや、表現を突き詰めることなど不可能である。この方を一目見た者は見惚れるあまり思考することを忘れ、美しいという月並みな物言いしかできなくなるのだ。


美であることへの憧憬や、嫉妬など抱くことができるはずもない。とても手の届く次元に存在すると思えない。格の違い、なんて言葉はこんな時に使うのだろう。


全てを総べる神がいるのなら、神はこの少女には持てる力と愛を惜しみなく捧げたのだろう。唯一、不治の病に侵されていることは、あまりにも完璧に注いだ愛が生んだ歪かもしれない。しかし、それすらも寵愛に思える。薄幸な少女は、それ故に美しかった。大きく見開かれた物憂げな碧い瞳は、万物が散り際に光らせる美が宿っていた。それが常世の者ではないような容姿をかえって助長させている。


「アヤメさん。私と同い年かな?」


 魂を抜かれたようにぽかんと口を開けていた私は、少女の質問に慌てて背筋を伸ばした。


「十六です」

「おんなじだ」


 胸の前で手を合わせながら、少女は微笑んだ。


「仲良くできたらいいね」

「はい」


 笑顔がとても素敵だった。

 今回の任務の詳細は明らかにされていない。ただ、要人の護衛をするとだけ聞いている。どこか影を帯びながらも、眩しい笑顔を見せるこの少女が護衛の対象だった。





同盟国であるヴェルガから皇女であるクリステル・シェファーが訪れていることは両国で最高機密とされていた。幼少よりクリステルは不治の病に侵されていた。医学に見放されるほどの重病であった。医学ではおおよそ解決できない域であり、医師は悲痛な面持ちで苦し紛れにこんなことを口走った。

遥か遠い桜花国には古の神々が未だ現世に留まっており、人の理解を超える奇跡を起こせる。

これを耳にした皇室は、すぐさま桜花の要人と密に連絡を取っていた。



「よくいらしたな」


 姫様との挨拶を終え、応接室の扉を開いた私は言葉を無くした。

 先の大戦で私の仲間を殺した男が、目の前で歯を見せて笑っている。呼吸するのも忘れ、ただ男の顔を見ていた。


「どうされたのかな?」


 不思議そうな顔をして男は言った。


「アヤメ、ここへ来い」


 師の声で我に返った私は、死人のような足取りで歩き、指定された席に着いた。


「話を続けよう。皇女様のご容態が優れぬようでは、我が国の志気に多大な影響を与えるであろう。そこで桜花の力を借りようということに相成った。貴国は講和を受け入れた我が国に対し、言葉に尽くせぬほどの大恩がある。今回の任、心してもらいたい」


 高圧的に話すのはヴェルガ軍親衛隊大佐、シュタインという。彼は自伝で桜花には人間ではなく「猿」がいる、と何の躊躇もなく書き記した。今では世界中が桜花人を猿と呼ぶが、初めにそう記したのはシュタインである。


桜花とヴェルガが再び戦争になることも十分にありえるこの緊迫した状態で横柄な態度をとれるのは、彼が心の奥底で桜花人を軽蔑していることにほかならない。そのシュタインが持論をいささか見直さなければならないと躊躇した理由はアヤメであった。



くっきりとした鳶色の瞳はレガール大陸の女性よりも魅力を秘めており、桜花という国名の通り、桜の花のように艶やかな色を表情に宿していた。アヤメのように長くすっきりとした黒髪を背に負っている桜花人を幾人も見てきたが、この少女はものが違うぞとシュタインは悟られぬように息を呑んだ。


「質問があります」


 私は表情を変えないままに言った。


「なにかな?」

「姫様を警護する任は光栄であります。しかし、護衛が私のみで姫様と二人きりというのは――」

「君は山を越える才に長けている。我が国の護衛が山に入ることをこの国のモンスターは面白く思わない。少数精鋭で臨む、そうであるな?」


 憮然とした表情のシュタインが私の隣に立つ師に視線を送る。


「その通りですな。この娘はどのような状況であれ最善をやってのける。皇女様にはかすり傷一つ、つくことはないでしょう」


師が表情を和らげて言ったので、私はそれ以上の追及を止めた。

任務とあれば他国の要人護衛であろうと、命を賭して挑む覚悟はできている。だが、どこか釈然としない。山には奇跡もあるが、危険も満ちている。そこへ他国の護衛一人を付けて、皇女を目的地へ向かわせるのはヴェルガとしては危険な賭けだと思う。人の願いを聞き入れてくれる神の住む山は、ここから軽く見積もっても三日はかかるのだ。


「任務はクリステル様を目的地まで無事にお連れすること。それが大原則である。その原則を順守する限り、クリステル様の命には従うこと。よいな」

「もう一つだけ、質問があります」

「なんだ?」


 シュタインは不機嫌そうに言った。

 応接室は気品のある装飾品で溢れていたが、私にとっては山奥の洞窟にいるのと何ら変わらなかった。目の前に仲間の仇である獣がいるのだ。


「シュタイン殿、どこかでお会いしたことはありませんか?」

「いいや、あなたとは初対面のはずですよ。桜花の美しいお嬢さん」

 即答だった。



 あの戦場を思い出す。連日の海戦で私達の乗った巡洋船は敵の駆逐艦五隻にまる一日追い回された。巡洋戦は追撃をかわしきれず撃破され、私と数名の仲間は海に放り出された。

 暗い海から引き上げられ、捕虜となった私達に尋問と言う名の拷問が行われた。

 それを笑顔で取り仕切っていたのがシュタインだ。

 人間の尊厳も誇りも、何もかも取り上げて人をいたぶって遊んでいた。

 私の部隊は、この男に殺されたようなものだ。



 それなのにシュタインはあの日のことを気にも留めていない。私を覚えていなかった。


「失礼いたしました。私の思い違いのようです」


 これ以上の会話は不可能だった。シュタインの首に手を伸ばし、骨ごと引き千切りたい衝動に駆られてしまう。だが、私がそんなことをすれば桜花が責めを負うことになる。師との約束と、僅かに残っていた冷静さを思いだし、頭に上った血を下げた。

 私は静かに席を立つと、姫様の待つ部屋へ向かった。山に向かう準備をしているらしいので、念のための確認だ。


「忘れろ、今は任務のことだけを考えるんだ。後で機会はいくらでもある」


 独り言をこぼし、力いっぱい手を握って歩いた。

ノックして部屋に入ると、数名のメイドがドレスを着せている光景に出くわしたので、驚きを通り越してひっくり返ってしまった。


「大丈夫!?」


 手を差し伸べられるが、姫の体に触れることを禁ずとの命が出ていたため、自力で起き上がる。


「な、何を考えておられるのですか。野掛けに行くのではありません」


メイドとの不毛な争いの末、ロングスカートをミニスカートにし、ハイヒールをブーツに変えさせることに成功した。太ももの露出はあり得ないと言うメイドには、黒のレギンスを履かせるということで手を打った。


「アヤメさん」

「はい」

「似合うかな?」


 似合うと聞かれれば、とてもよく似合っている。しかしそれは登山の恰好ではなかった。


「よくお似合いです」


 苦笑いで応えた。しかし、姫の目も節穴ではない。心境が通じてしまったようで、小さな頬を膨らませている。


「私もアヤメさんのような格好の方がいいかしら。えと、サムライと言ったような」


私との口論で疲れ果てたメイドが再び立ち上がった。何事か喚いているが、要約すると「姫様が召してよいものではありません」ということらしい。私の着物は袴が膝までしかない。肌を露出している上に、履いている草鞋は姫の華奢な足では歩くことは難しいだろう。


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