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「空」「蜘蛛」「残念な城」

 空に白はなかった。死ぬならやっぱこんな日がいい。屋上の柵の外。何回もやった経験で駄目だと分かってはいるけれど足元を見てしまい、軽い恐怖に涙腺が緩む。前回は下を見て怖気づいてやめたし、その前もその前も死ねなかった。そういやずっと前、あの時は確か何かがここにいて、死ぬのをやめたんだよな。でも今日こそは……。と、そんなときだった。――純黒。圧倒的な黒。私の、前に。空中に。足元を見てみても、当然何にもない。

 ついてきて、と彼は言った。素敵なものを見せるよ、と。涙でぼやけた目に、彼の黒髪は一際美しく見えた。知らない人についていってはいけません。お母さんの教えを無視したくなるくらい、素敵な黒。よく見れば彼がまっすぐ空にあげていた手の中から、まるで蜘蛛の糸みたいな細い糸が雲に向かってのびている。

「君には恩があるんだ」

 私の手を引きながら、彼は言う。何の抵抗もなく彼の体に飛び込んだ。落ちるかも、なんて心配はなぜかひとつもない。黒い服につつまれた彼の胸は湿った土の匂いがして、腰に回された手は冷たかった。糸がゆるゆると上がっていく。うっかり下を見てしまいそうで目をつむっていたら、いつの間にか固いものに足がついた。目を開くと、草原。ちらほらと廃墟のようなものの残骸がある。分けがわからなくて彼を見ると、「くものうえだよ」と歌うような声で囁かれた。彼の後ろには、どこに繋がるかわからない、ゆるく螺旋を描いた階段。腰の手がほどかれ、手を握られる。こっちを見て微笑んだ彼が歩きだしたから、必然的に私も歩みを進めた。

 朗らかに苔むした階段を登っていく。触れている手は、やっぱりとても冷たくて。あたためようと思い、強く握った。

 彼は振り向き、小さく笑う。

「優しいね」

 ―コトン、と。心の中の何かが音をたてた。彼の瞳は、彼の黒髪と同じくらい黒くて、思わず目を逸らしてしまう。涙はもう枯れていた。

「ついた」

 見上げたさきは、青。そら。そしてくも。周りを朽ち果てた城壁みたいなもので囲んであるだけの、だたっぴろい緑。

「ここはね、僕がしんだら来るところ」

「…え?」

「ひさしぶり。あの日助けていただいたくもです」

 くも。あっ、蜘蛛か。そのフレーズを聞いたらぼんやりと浮かんできた記憶を、戸惑いがかき消す。彼はまるで妹を見るかのような顔で微笑んでいた。きらりと何かがきらめいたと思ったら、彼の純黒の毛先が白く輝いて根本までのぼっていく。足元、手先も同じように白くなっていき、確かに繋いでいたはずの手がふわりと白に消えた。

「君の問いの答えだよ」

 ほとんど白になったなか、さいごまで黒を残していた目が細められて、彼は私に向かって一歩踏み出す。

「おねがいなんだけど、ぼくが見てるところではしなないでね。ってか、死なせない」

 疑問に思う間もなく彼の体は私を通り抜けて、振り向いたらもうふわふわと漂う雲しか見えなかった。



『そんなところにいたらあぶないよ、くもさん。こんなたかいところからおちたらしんじゃうよ。わたしがいえたことじゃないけれど』

『よし。くもさん、きみをもりにかえすよ! だからきょうはわたししぬのやめる』

『ねぇくもさん、わたししんだらどこへいくのかな。なにになって、なにをするのかな。とってもつらくてとってもしにたいけど、でもそのさきがないのはこわいなぁ』

『ねぇくもさん。あなたはしんだらなにになるの?』



 鼻に残る土の匂いが、記憶の残り香。

お城の上には空 屋根が無い 彼は蜘蛛 蜘蛛の糸、みたいな 死んだ蜘蛛は雲になって消える っていう半年くらい前の私が残したメモをたよりに。そういや前助けたトカゲっぽいトカゲに会えました。逃げられました。

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