第六十六話 バレンタインデー③
③午後三時、一色邸リビングにて。
掃除や洗濯を終えた晴久がリビングに行くと、ちょうど理玖もやって来たところだった。
「理玖さん、ご休憩ですか?」
「……あぁ」
バレンタイン当日なので、わざわざこの日を選んで診療所に来る者はいないらしい。
朝から全く患者が来ないので、理玖は研究に精を出しているのだ。
「そういえ先程透花さんから連絡がありまして、予定より大分はやいですが今日戻られるそうですよ。バレンタインなので、夕飯を作ってくれると言ってました」
「……そう」
理玖の表情がほんの少し緩むのを、晴久は見逃さなかった。
二人は屋敷内で仕事をしていることが多いので、必然的に一緒にいる時間が長いのだ。
最初は無口な理玖のことを怖がっていたが、今では些細な表情の変化がわかるようになってきた。
「理玖さん、それは……」
「……佐々木くんの奥さんから貰ったんだ。いつも主人が世話になっているお礼だそうだよ」
晴久は、理玖が持っている小箱に視線を向けた。
それは、日菜子から理玖へのバレンタインの贈り物のようだ。
「そうなんですか。お世話になっている方へのチョコのことを、世間では”世話チョコ”と言うらしいですよ」
「……へぇ。君も、朝貰ってたじゃないか」
「はい。ありがたいことに、美海ちゃんのお友達がくれたんです。この間うちに遊びに来た時におやつを作ってあげたからだと思うんですが、最近の子は律儀なんですね」
登校前に、香澄は晴久にチョコレートを渡すべく屋敷を訪れていた。
彼女からすれば本命なのだが、その気持ちは晴久には伝わっていないようだ。
「せっかくいただいたんですし、食べましょうか。紅茶でも淹れて……」
「……そうだね。紅茶なら僕が……」
理玖が向かおうとしたキッチンから、ティーポットとカップを持った透花が出てきた。
「と、透花さん……!」
「……帰ってたの」
「うん。さっき帰ってきたんだ。これからまた出かけようと思ってるから、少しはやいけれど夕飯の下ごしらえをしているの」
透花はそう言うと、ポットとカップをテーブルに置く。
「二人がリビングに来たのがわかったから紅茶を淹れたんだ。アッサムにしたのだけど大丈夫かな?」
「はい。ありがとうございます」
「……アッサムはチョコレートに合うよ」
「それならよかった。私も、二人と一緒にお茶でも飲みながら少し休憩しようかな」
「はい、ぜひ」
「……別にいいんじゃないの」
こうして、三人ののんびりとしたお茶会ははじまったのだった。
「この二週間の間に、何か変わったことはあった?」
「……特にないよ」
「……そうですね。変わったことはありませんでしたが……」
晴久は一度言葉を区切ると、苦笑いを透花へと向ける。
「……みなさん、少し元気がなかったですよ」
「……そうだったの?」
「……はい。心くんは、いつもより食べる量が少なかったですし」
「……それは大事件だね」
「あ、少ないといっても人並み以上はちゃんと食べてました。柊平さんは、いつもよりもお酒の量が増えていましたね」
「……それも大事件だよ」
「そ、それでも節制した量でしたよ。蒼一朗さんは、いつにも増してトレーニングに精を出していました」
「それはちょっと面白いや。あれ以上ムキムキになってどうするのだろう」
透花は笑いを抑えきれずに吹き出した。
「颯くんは透花さんがいないのを忘れて、髪の毛をセットしようと部屋を訪ねていることがありましたよ」
「颯くんらしいなぁ」
「湊人くんは寝不足なのか、目が血走っている日が多かったですね……」
「……集中できないと夜通しゲームやっちゃうからね、彼は」
「一番重症だったのは虹太くんです……。見るからに元気もないし、ピアノの音もどこか寂しそうでした……」
「……今日帰ってきたら、一番にフォローしておくよ」
「理玖さんは……」
「……ごちそうさま」
晴久が理玖について話そうとしたところで、理玖は席を立った。
「理玖、もう飲み終わったの?」
「……あぁ。色々とやることがあるから」
「あ、カップはそのままで大丈夫ですよ。後で僕が運びますから」
「……わかった」
そう言うと、ダイニングを出ていってしまう。
「……理玖さんは、窓の外を見ていることが増えました。何を考えているのかは僕にはわからなかったですけど、透花さんのことを考えていたんじゃないかなと思います」
理玖がいなくなったダイニングで、晴久はポツリと呟いた。
「あ、今のは僕の勝手な思い込みかもしれません……! な、なんとなくそう見えたというだけで……」
慌てて自分の発言を撤回しようとした晴久を、透花は優しい笑みで制した。
「……ありがとう、ハルくん」
「え……?」
「多分、ハルくんの言った通りだと思うよ。理玖、心配性だから私のこと心配してくれていたのかも」
「そ、そうでしょうか……?」
「うん。これからも理玖と仲良くしてあげてね」
「な、仲良くしてもらってるのは僕の方ですよ……!」
透花が浮かべる聖母のような微笑みを見ながら、晴久は思った。
(そういえば二人は昔からの知り合いらしいですが、一体いつ出逢ったんでしょうか……)
しかし、その疑問は彼女の言葉によってすぐに打ち消されることとなる。
「それで、ハルくんはこの二週間どうだったのかな?」
目の前にいる透花は、先程までとは違ういたずらな表情をしている。
「ぼ、僕ですか……?」
「うん、ハルくん」
「皆さんほどじゃないかもしれませんが、夕飯の後の透花さんの”今日もおいしかったよ。いつもありがとう、ハルくん”という言葉がないと、なんとなく自分の中で一日が終わらないような気がして……」
「……嬉しいこと言ってくれるなぁ」
「な、なんかごめんなさい……」
「ううん、素直に嬉しいよ。でも、今日は私が夕飯作るからその言葉は聞けないね」
「あ、そうですね……」
「明日からはまた毎日言うから、今日は私の料理を食べておいしいって思ってもらえるといいな」
「も、もちろんです……! 透花さんの料理はいつもおいしいですよ……!」
「そうかな? それならよかった」
透花は、空のカップをソーサーに置く。
「……さて、そろそろ休憩も終わりにして出かけてこようかな」
「どちらへ行かれるんですか?」
「食材の買い足しと、ついでに心くんと颯くんの高校に寄って来ようと思って」
「二人とも、きっと喜ぶでしょうね」
「これを着て行ってみようと思うのだけど……」
そう言うと、足元に置いてあった紙袋の中身を晴久に見せた。
晴久は驚愕で目を見開く。
「こ、これを着て行くんですか……!?」
「うん。完全にコスプレなんだけどね」
「……心くんと颯くん、驚くでしょうね」
「まぁ、たまにはこんなサプライズがあってもいいということで!」
透花は晴れやかな笑顔で立ち上がった。
「そ、外は寒いのでお気を付けて……」
「うん。早速着替えて行ってくるね! あ、カップ……」
「理玖さんと自分の分と一緒に洗っておくので、そのままで大丈夫ですよ」
「ありがとう、ハルくん。じゃあ、よろしくねー!」
軽やかに手を振ると、透花はダイニングから出て行った。
(本当に、不思議な人です……)
晴久は、三人分のカップを片付けながらそう思う。
(でもこれで、また毎日透花さんからあの言葉を貰えるんですね……)
彼女に感謝の言葉をかけられるのを想像しただけで、胸の奥がくすぐられるような感触に襲われるのだ。
洗い物をする手は水で冷たくとも、心はあたたかい――――――――――。




