第四十三話(透花編)お兄さん、隣いいかな?
この日、休日だった理玖は珍しく外出していた。
彼は今、王立図書館にいる。
静かで多くの本に囲まれているこの場所は、彼にとって落ち着くのだ。
本棚から貸出禁止の本を二冊ほど選ぶと、近くの椅子に腰かけ、それを読み始めた。
「お兄さん、隣いいかな?」
読書を始めてから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
本の世界に没頭していた理玖の耳に、柔らかな声が届く。
それが知らない声だったら、間違いなく無視していただろう。
しかし聞き覚えのある声だったので、彼は視線を本から離さずに答えた。
「……好きにすれば」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
そう言うと、声の主である透花は理玖の隣の椅子に座った。
そして、自分も本を読み始める。
二人の間には、静かだが穏やかな空気が流れていった――――――――――。
十二時を告げる鐘の音が、透花の耳に響く。
(もうこんな時間か。理玖は……)
視線を向けてみるが、彼には鐘の音など聞こえていないようだ。
いまだに、本に読みふけっている。
「……理玖、理玖」
透花は、彼の肩を軽く叩きながら、小さな声で呼びかけた。
「……何」
透花の呼びかけに、理玖はようやく視線を本から離し、彼女へと向ける。
「お昼ご飯の時間だよ。ハルくんがお弁当持たせてくれたから、一緒に食べない?」
透花はそう言うと、バスケットと水筒を掲げて理玖に見せた。
「……わかった」
理玖は、読んでいた本を閉じる。
彼は空腹というわけではなかったが、喉は渇いていたのだ。
図書館内は飲食禁止のため、喉を潤すなら飲食ができる場所まで行く必要がある。
それならば、ついでに昼食もとってしまおうという判断だった。
今までの理玖からすると、これは考えられないことだ。
“晴久手作りのお弁当”というのも、彼を動かした一つの要因なのだろう。
二人は、建物の外に出た。
麗らかな日和だったので、庭のベンチで昼食をとることにしたのだ。
「はい、理玖。パンはハルくん特製で動物性食品を使ってないみたいだから、食べられる具のやつ取って食べてね」
バスケットには、様々な具のサンドイッチが入っていた。
理玖は、トマトとレタスが挟まれたものを取る。
「……随分準備がいいね。僕がここにいること、知ってたの」
自分でも食べられる弁当であることを不思議に思った理玖は、透花に尋ねた。
「うーん、なんとなくそう思ったってだけで、確証はなかったけれど。理玖が外出するとすれば、花屋さんかこの図書館のどっちかじゃない? 私もちょうど休みで図書館に行こうと思っていたから、もしいたら一緒にご飯でも食べようと思って、ハルくんにお願いしたんだよ」
「……そう」
透花も、バスケットから一つサンドイッチを取り出すとそれを頬張った。
「あ、温かいアップルティーもあるけれど飲む?」
「……あぁ、貰うよ」
こうして二人の間には、優しい昼食の時間が流れていった―――――。
結局理玖は、二切れのサンドイッチと一杯のアップルティーしか口にしなかった。
相変わらず小食である。
残りは全て透花の胃に収められた。
合わせて一点五人分ほどの量しかなかったとはいえ、いつもよりもたくさんの昼食をとった透花には、睡魔が襲ってきていた。
暖かな気候も手伝い、それを抑えるのは難しそうだ。
首を小さく揺らしながら、うとうとしている。
「……少し寝ていいよ」
「ん、でも……」
「……今日は暖かいから、外で寝ても風邪はひかないだろう。いい天気だから、僕も少しここで本を読んでいくから」
理玖はそう言うと、一冊の本を取り出した。
それは先程まで読んでいた貸出禁止の蔵書ではない、緑色の家庭菜園の本だった。
建物の外に出る前に、借りる手続きをしていたのだ。
「ん、じゃあお言葉に甘えて少しだけ……」
透花は理玖の肩に頭を乗せると、目を閉じる。
「……肩を貸すとは言ってないんだけど」
理玖の声は、既に眠ってしまった透花の耳には届かない。
ため息を一つ吐くと、理玖は持っていた本を読み始めた。
「……春原! おい、春原! 起きてくれ!」
「ん……」
暖かな陽気に釣られて、いつの間にか理玖も本を読みながら眠ってしまったようだ。
はっきりとしない意識の中で、柊平の声が響く。
「……何」
理玖は顔を顰めながら目を開けると、不機嫌な声で返事をした。
低血圧のため、あまり寝起きはよくないのだ。
しかし、目の前の柊平はいつものクールな表情を崩している。
「隊長が……隊長が呼吸をしてないんだ!」
「彼女が……?」
柊平の言葉に大して驚いた様子もなく、理玖は自分の肩に頭を預けている透花に視線を向ける。
彼女は確かに、呼吸をしていない。
「……あぁ。強く揺すれば起きるよ。ほら、起きて。君に用事がある人が来てる」
「強く揺すればって……呼吸をしていないんだぞ!? そんなことで起きるはずが……」
「ん、用事……?」
理玖が透花の肩を揺すると、透花は何事もなかったかのように目を覚ました。
呼吸も、いつも通りしている。
柊平は目の前の光景に、絶句するしかなかった。
(そんなことあるはずがない……! 隊長の呼吸は、確かに止まっていた……! それなのに、どうして隊長は何事もなかったかのように目を覚ました……!? なぜ春原は、全く驚かなかったんだ……!? 私の、見間違いだったというのか……!?)
そんな柊平をよそに、透花はいたっていつも通りだった。
「あぁ、柊平さん。どうしたの? 何か急な仕事?」
透花の声で柊平は我に返り、自分がここまで赴いた用件を思い出した。
「あ、はい……。隊長に至急確認していただきたい書類がありましたので、こちらまで参りました。お休みのところ、申し訳ありません……」
「別に平気だよ。書類に目を通すくらい、仕事のうちに入らないから」
「……ありがとうございます。こちらが、その書類になります」
「いえいえ、むしろここまで来てくれてありがとう。ここですぐに目を通すから、少し待っていてくれる?」
「はい。勿論です」
先程あんなことがあったというのに、透花も、隣で読書を再開した理玖も、いつもと変わった様子は何一つ見られない。
……恐ろしいほどに、彼らはいつも通りだった。
その光景に、柊平の背筋に冷たいものが走る。
よく考えると彼は、彼女について何も知らないも同然だ。
なぜこのような若い少女が、王都の隊長という地位に就けたのか。
王から、全幅の信頼を得ているのは何故なのか。
いったい、一色透花とは何者なのだろうか――――――――――。
しかしそれを口に出すと、何かが壊れてしまいそうだと本能的に考えている自分がいることに気付く。
こうして柊平は、透花が書類を読み終わるまでの間、ただ立ち尽くして待つことしかできないのだった――――――――――。