第三十八話(透花編)私が負ける日も近いかもね。
別の休日、透花は蒼一朗と共にランニングをしていた。
屋敷内にもトレーニングルームはあるのだが、彼らは時間を見つけては外に走りに行くようにしている。
十キロを走り終えたが、二人ともまだ余力があるようだ。
「どうする? もう帰る?」
「んー、なんか物足りない感じなんだよな……」
「じゃあ、近くの陸上トラックを走っていこうよ。今日は、八百メートルで競走でもしようか」
「おっ、いいぜ。……今日こそは負けないからな」
「私だって負けないよ!」
「……今日もなんか賭けようぜ」
「賛成! 私が買ったら、ボヌールのチョコね」
「げっ! あそこのチョコって、一粒がめちゃくちゃたけーんだよな……。俺が買ったら、回らない寿司な」
「それもいいね。私、ホタテ食べたい!」
「余裕だな……」
ランニングを終えた後にトラックで競走するというのが、二人のお決まりのパターンになろうとしていた。
四百メートル、八百メートル、千五百メートルと毎回違う距離で競うのだが、蒼一朗が勝ったことは一度もない。
「私の勝ちー!」
「くそっ……」
僅差だったが、今日も透花が勝利した。
「今日も、俺の、負けかよ……」
蒼一朗は、息も絶え絶えに言う。
「でも蒼一朗さん、はじめて私と走った時に比べたら格段に速くなっているよ。私が負ける日も近いかもね」
「その分、そっちだって速くなってんじゃねぇか……。あー、負けた負けた!」
掴もうとする手をすり抜け、常に一歩先を行く。
蒼一朗にとって、透花の背中はそのように見えている。
「ボヌールのチョコだろ? はやく行かないと、人気の商品はなくなっちまうんじゃねぇか? とっとと行こうぜ」
蒼一朗は、自分が口にした約束は絶対に守る潔い男だった。
透花は、彼のそういう面を気に入っているのだ。
「うん! そうだね。じゃあ行こうか」
二人はトレーニングを切り上げると、チョコレートショップへ向けて歩き出した。
店に向かう途中、二人は前方に見知った背中を発見した。
早歩きで彼に追いつくと、声をかける。
「よっ、ハル」
「これから買い出し?」
「あ、透花さんに蒼一朗さん。はい。これからスーパーに行くところです。お二人は、トレーニングの帰りですか?」
その背中は、買い出しに行く途中の晴久のものだった。
「あぁ、そうだぜ」
「・・・ねぇねぇ、ハルくん」
「はい。なんでしょうか?」
「今日の夕飯のメニューって、もう決まっている?」
少しの間だけ何かを考えるような素振りをしていた透花が、口を開く。
「いえ。スーパーで色々見てから決めようと思ってましたが……」
「じゃあ、お寿司パーティーなんてどうかな?」
「お寿司パーティー、ですか……?」
「うん! シャリだけ先に用意しておいて、みんな自分の好きなネタを選んで食べるの!」
「楽しそうですね。あ、でもそれだと理玖さんが……」
理玖は、魚も卵も食べないのだ。
一般的な寿司のネタは、ほぼ全て食べられないと言ってもいいだろう。
「手巻き寿司も作ろうか。理玖は、きゅうりや梅なら食べられるし。あ、納豆もいけるよ」
「あとは、アボカドや……あ、ちらし寿司もいいかもしれないですね」
「そうと決まれば、早速買い出しに行こう! ほら! 蒼一朗さんも手伝って!」
透花は、楽しそうに蒼一朗の背中を押す。
「……チョコレートはいいのかよ?」
スーパーで食材を買えば、その後に他の店に寄るのは大変だろう。
ただでさえ、生ものを大量に買おうとしているのだ。
「うん。よく考えたら、こんな格好だし、汗も結構かいたしさ。あんなオシャレなお店には、入りにくい気がしちゃって」
透花の今の姿は、トレーニング後ということもありランニングウェアだ。
彼女も女性なので、汗臭いままオシャレなお店に行くのは気がひけるらしい。
「あんたがそれでいいって言うなら、別にいいけど……。賭けの分、どうすんだ?」
「……蒼一朗さん、律儀だねぇ。“高いチョコ奢らずにすんだ! ラッキー!”とか思わないの?」
「思わないことはないけどよ……。負けは負けだろ。その辺の筋は、きっちり通しておきたいんだよ」
どこまでも、潔い男だ。
「じゃあ、スーパーで何かチョコレートのお菓子買ってよ。それでチャラ!」
「はっ!? そんな安いのでいいのか!?」
「別にいいよー。スーパーのお菓子だって美味しいもの」
透花は、柔和な表情を浮かべた。
「……わかったよ。あんたがそれで満足するなら、俺がどうこう言う話でもないしな」
蒼一朗は、頭を掻きながら了承の返事をする。
透花はおそらくはじめから、彼に高いチョコレートを奢らせる気などなかったはずだ。
蒼一朗の闘争心を煽るために賭けたが、晴久に会わなくても、適当な理由をつけて安いものに変更したに違いない。
寿司パーティーを提案したのもそうだ。
寿司を食べたがっていた蒼一朗に、物や形は違うが、それを食べさせたいと思ってくれたのだろう。
(ちくしょう、遠いな……)
少し先を行く、自分よりも華奢な背中を見ながら思う。
それは、彼女の気遣いが身に沁みたからこそ出てくる気持ちだった。
(……いつか絶対、追いついてみせるけどよ)
蒼一朗は改めて決意すると、彼女を追うために歩き出した――――――――――。




