【前座】 第二幕 アノニマス市の悪魔の頭脳
正確に言えば、名前ではありません。
通り名とでも呼べばいいのでしょうか?とにかく、その男のことが頭をよぎりました。
通称、小ファウスト。あるいは、ファウスト学士。
もちろんその通り名の由来は、悪魔メフィストフェレスを召還して取引した、いかがわしき錬金術師ゲオルグ・ファウストから来ています。
本家本元のファウスト博士が、己の魂と引き換えに欲望を満たす力を手に入れたように、このファウスト学士も、黒い噂が耐えない男です。
私自身は遠目にしか見たことがないのですが、まだ二十台の―――少なくとも外見上は!――若さだというのに、日がない一日、働きもせず、友人もなく、連日連夜小暗い部屋に閉じこもって怪しい研究にふけっているとの事です。
照明を押さえた部屋の中には、大小無数の頭蓋骨、生き物のミイラとおぼしき乾物、色や臭いも取り取りな液体の小瓶、何に使うかまるで見当のつかない怪しげな形状の器具…などなどの物体が所狭しと棚を飾っているというのは、彼に家を貸している大家の証言です。
誰も入ったことのない奥の戸の向こうには、メフィストフェレスを呼び出したときの魔方陣が残っているとのもっぱらの噂です。なぜ、誰も入った事のないのに噂になるのかは不思議という他ありませんが。
たまに街に顔を出しても、猫背気味に背中を丸めて、俯き加減にとぼとぼ歩いている彼に、進んで話しかけようという者はいません。
それにファウスト学士には、歩きながら独り言を口ずさむ悪癖があります。独り言といっても、けっこうな声で、意味不明で理解不能な言葉を羅列するのです。
これは呪文だと信じるものが多く、こうなった日には、呪いを恐れる町人達は、悲鳴を上げて我先にと逃げ出すので、ファウスト学士は外出する日はアノニマス市のあちこちで、ちょっとしたパニックが起こります。
兎にも角にも、そういう男ですから、大家が彼を追い出さず、街の人たちが彼を魔女狩りの槍玉に上げないのが不思議なくらいの人物です。
もっとも、どこから調達しているのか、家賃は毎月きちんと納めているそうですし、今のところ、このアノニマス市で奇怪な連続殺人事件も子供の失踪事件も発生していないので、噂が尾ヒレをつけて一人歩きしている可能性もありますが。
では何故、私はそんな、いかがわしい男を頼ろうと思ったのか?
ですが、万策つきた身にはこの一案はとても素晴らしいもののように思えたのです。
ファウスト学士ならば、錬金術や呪術などきっと他の人間の知らない知識を持っていることでしょうし、私の身に起こった恐ろしい事件にも、脅えることなく聞き通してくれそうです。なにせ悪魔と取引をするくらいの男なのですから。
なにより、この男、件の取引で魂を売ってまで引き換えたものは、全てを見通す悪魔の頭脳だとの事なのです。だとしたら、アノニマス市、一番の賢者は、ファウスト学士だということになるではありませんか!?
人の知恵では歯がたたない問題、全能の神の計らいをもってしても、まだ解けぬ難問を前にした人間が――つまり、私ですが――悪魔の頭脳に頼ったところで驚くには当たらないでしょう。
そうこう考えながらも、私はとうとう街外れにある、みずぼらしい一軒家にたどり着いてしまいました。
たてつきの甘い戸には呼び鈴もついていません。きっと訪い人など滅多に来ないから必要もないのでしょう。
私は両手を胸に当てて、息を大きく吸っては吐きました。なにしろ、一度この中に入ってしまったら、生きて出てこられる保障はありませんから、このくらいの怖じ気は許されてしかるべきでしょう。
入ったら最後、同じ自分で出てこられるか不安になってきました。
黒魔術の生贄にされるか、使役獣の餌にされるか、いいとこで秘薬の材料として鍋に放り込まれるか。何が起こるか想像もつきません。
私は、たっぷり十分は扉の前で悩みました。
しかし、結局、私にとって、何にも勝る優先事項は、最前もくりかえしたとおり、例の事件の解明に他なりません。
私は意を決して、拳を握り締めました。
悩みぬいた末、まずは扉を、つつましやかにコンコンと二連打ノックするのが妥当だとの結論に達し、実行しようとした、その時です。
ギギギと重々しいきしみ音を立てて、扉がひとりでに私の鼻先で開いていったのは。