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その日鷹峰グループの役員二人が月猫庵を訪れていた。土地の権利書を持って…
「……移転の費用や新店舗の候補も、こちらで用意いたします。破格の条件かと思いますよ?」
テーブル越しに、専務が書類を差し出す。
「でも……ここは……」
花楓は視線を落とし、両手でカップを握りしめていた。
その声はかすかに震えている。
その時。
――カラン。
古い引き戸の音が鳴り、店に新たな影が差した。
「鷹峰さん……」
顔を上げた花楓が目を見開く。
「すみません。今日、お店……まだ……」
「……構わない」
低い声が静かに響いた。
その場にいた専務が振り返る。
「――社、社長!? なぜここに……」
驚愕で青ざめる顔。
彼にとってここは、ただの“立ち退き対象の古民家”だった。
だが、今まさにその場にグループの実権を握る人物が現れたのだ。
煌牙はゆっくりと足を進め、テーブルの書類へと視線を落とした。
見慣れた社印。
自分の会社の名が、花楓の居場所を奪おうとしている証だった。
「……その話、俺が引き継ぐ」
専務は慌てて立ち上がり、冷や汗を拭った。
「し、しかし社長、これは会長と役員会で決定して――」
「決定権は俺にある。もう一度言う――これは、俺が引き継ぐ」
沈黙が落ちた。
花楓の唇がわずかに震え、専務の顔は蒼白に染まる。
そして、その瞬間。
“鷹峰社長”として初めて彼女の前で真っ直ぐに立った。
「社長……?」
花楓は専務が出て行ったあとも、その場に立ち尽くしていた。
声がかすれている。
「じゃあ……なんで……」
目が潤んでいく。
「ここは大切な場所なのに……」
裏切られたような痛みが、言葉の端々に滲んでいた。
その表情が胸を突く。
「……頼みがある」
俺は彼女の目の前まで歩み寄り、低く呟いた。
「え……」
花楓が顔を上げる。
涙が今にもこぼれそうな瞳。
その視線を正面から受け止める。
社長ではなく、一人の男として。
「俺と………一年だけ、結婚してくれ」
「えっ……?」
花楓は瞬きをした。
「立ち退きも、銀行の融資も、全部俺が引き受ける。その代わりに……一年だけ、俺の“妻”になってくれ」
声が震えるのを、自分でも感じていた。
役員会や土地の権利を動かすよりも、この言葉を口にする方が、よほど勇気がいった。
花楓は呆然と立ち尽くし、唇を開いたまま声を失っていた。
「契約結婚だ」
俺は低く言い切った。
「俺はもう、煩わしいお見合いはコリゴリなんだ。仕事に集中したい。
その代わり、一年後に離婚したら……
この土地の権利を君に渡す。慰謝料も払う」
言葉にした瞬間、花楓の瞳が大きく揺れた。
彼女の指が震えて、握りしめる。
「でも、でも……」
かすれた声で絞り出す。
「私、好きな人としか……結婚なんて……」
――胸の奥に、小さな痛みが走った。
だが、それでも譲れない。
「……俺が必ず、ここを守るから」
静かに、けれど強く告げた。
花楓の瞳が涙で滲み、俺を見上げる。
「……っ、でも……そんなの……貴方が悪者にされちゃうよ?」
その一言に、喉が熱くなった。
自分のことより先に俺の立場を案じる、その優しさ。
だからこそ、俺は――彼女を絶対に守りたいと思った。
涙声で呟く花楓に、俺は迷わず答えた。
「心配しなくていい。そんなもの、どうにでもなる」
短く、強く。
それは威圧ではなく、揺るがぬ確信だった。
覇王と呼ばれてきた血が、今この瞬間だけは“約束”へと変わる。
花楓の肩がわずかに震える。
迷い、戸惑い、それでも瞳の奥で小さな決意の光が揺れた。
「……わかった」
彼女は深く息を吸い、頷いた。
「よ、よろしくお願いします」
静かな声が、庵の中に落ちた。
その瞬間、俺の胸の奥で何かがほどけた。
安堵か、歓喜か、それとももっと強い感情か――
まだ自分でも言葉にできない。
ただ一つだけ、確かだった。
(これで……もう“客”じゃない。お前は、俺の花嫁だ)




