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夜、四条通りに立つマンション。
静まり返った部屋に戻った瞬間、俺はソファに体を投げ出した。
「……何をしてるんだ、俺は――っ」
額に手を当て、深く息を吐く。
いつもなら計算も冷静さも失わない。
だが今日、あの瞬間だけは違った。
観光客の汚い笑い。
花楓の困惑した顔。
そして、胸に触れたあの手。
思い出すたび、血が再び沸騰しそうになる。
(……困らせたか? 怒らせたか?)
花楓は、あの後、小さく頭を下げて言った。
「ありがとうございます」
声は震えていた。
それでも、はっきりとそう言った。
セーフ……か?
いや、違う。
感謝の言葉に安堵した自分がいたことが、何より厄介だった。
鷹峰の社長として立場を背負う男だ。
感情に流されることなどあり得ない。
……はずだった。
「……くそッ」
舌打ちが漏れる。
守りたいだと? 特別な笑顔が見たいだと?
そんな感情に振り回される自分など、認めたくない。
だが、思考を切ろうとすればするほど、脳裏に浮かぶのは花楓の表情だった。
怯え、戸惑い、それでも最後に向けられた小さな笑顔。
胸の奥で、答えの出ない熱が燻り続けていた。
翌日、鷹峰ホテル京都・翠嵐高峰のラウンジ。
磨き上げられた大理石のテーブル越しに、俺と弟が向かい合っていた。
弟―鷹峰昴流。まだ高校二年。
本来なら俺が導く立場のはずなのに、なぜか今は逆だった。
「…………………認めれば?」
アイスティーのグラスを傾けながら、昴流が呆れたように呟く。
「何をだ」
思わず声が荒くなる。
「決まってるでしょ。兄さん、あの店のオーナーさんに惹かれてるって」
さらりと告げる口調に、心臓が一瞬跳ねた。
「馬鹿言うな。俺はただ……店に迷惑をかけた客を追い払っただけだ」
「ふうん。じゃあ、なんで僕に相談したんです?」
昴流は楽しげに目を細めた。
年下のくせに、妙に大人びた目をする。
「兄さん、わざわざ僕をラウンジに呼び出してまで、
“あの時困らせたかどうか”を気にしてるんですよね。
普通の客なら、気にする必要ないでしょ」
痛いところを突かれ、言葉が詰まる。
昴流はストローを弄びながら、肩をすくめた。
「兄さんはいつも完璧に見えるけどさ。人を愛することに関しては、下手なんですよ」
「……っ」
返す言葉が見つからない。
「でも、僕はちょっと安心しました」
昴流はふと優しい顔を見せる。
「兄さんが人に腹を立てたり、誰かを守ろうとしたりできるんだなって。
あのお店のコーヒー……美味しいでしょう? あれは
“人の温度”を持ってるからなんですよ」
沈黙。
胸の奥に、弟の言葉がじわりと広がっていく。
(……認めろ、か)
認めれば、楽になるのかもしれない。
だが―簡単に口にできるほど、俺は柔らかくない。
「……兄さん」
昴流はストローを弄んでいた手を止め、真っ直ぐに俺を見た。
その眼差しは年齢を超えた鋭さを帯びていた。
「好きなんだよ。――花楓さんのこと」
カップの中の氷が小さく鳴った。
思わず息を呑む。
「な……」
否定の言葉を探したが、口から出る前に昴流が続けた。
「勿体ないですけどね。覇王には」
呆れたように、それでいてどこか優しく笑う。
俺の胸に刺さるのは、その素直さだった。
「兄さんはさ、完璧に仕事こなして、誰より冷静で、みんなから恐れられて。
でも花楓さんは、そんな兄さんをただ“お客さん”として扱うんですよ」
「……」
「だから気になって仕方ないんでしょ。兄さんにとっては初めてなんだ。
地位も肩書きも関係なく、ただの人として笑ってくれる相手が」
言葉が出なかった。
図星を突かれたように、胸の奥がざわめく。
昴流は残り少ないドリンクを飲み干し、にやりと笑った。
「兄さん。覇王なんて呼ばれてるけど――
その顔、ただの“恋してる男”ですよ」




