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翌朝、鷹峰家の大きなダイニングには全員が揃っていた。
香ばしいパンの香りと温かなスープの湯気が立ち昇り、いつもの家族の朝の光景が戻っていた。
「昴流、大丈夫か?」
パンをちぎりながら煌牙が声をかける。
「……大丈夫。でもやっぱり兄さんたちみたいに格闘技やっておけばよかったよ」
腕の包帯を見せながら、昴流は照れくさそうに笑った。
花楓も安堵したように笑みを浮かべ、綾子は「無理はしないでね」と優しく声を添える。
その空気の中、朝紀がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば昨日、役員たちが文句を言いに来たよ。土地の件、どうしたってね」
煌牙と花楓は、思わず顔を見合わせ―そして同時に笑った。
その笑顔に綾子が目を細める。
「もしかして……」
煌牙は頷き、はっきりと告げた。
「別邸は――月猫庵です」
――――
その日の午後の煌牙の執務室。
ずらりと並んだ役員たちが、不満げな顔で並んでいる。
「社長、プライベートで会社の方針をいつまで曲げるおつもりですか? 遊びじゃないんですぞ」
「株主達にも体を成すはずが……」
次々と浴びせられる声に、煌牙は一言も返さない。
ただ机の上に、一枚の書類を差し出した。
「……?」
役員の一人が手に取り、目を走らせた瞬間、その顔色が変わった。
「別邸・月猫庵……? 一棟貸し温泉宿……カフェ併設……」
読み上げる声が震える。
そして最後の欄に記された名を見て、会議室はざわめきに包まれた。
「プロデュース……く、くれは……? 世界的建築家の……KUREHAだと?!」
驚愕の声が飛び交う中、煌牙は微動だにせず椅子に腰掛け、冷ややかな眼差しで役員たちを見据えていた。
(――文句は結果で黙らせる。それが俺のやり方だ)
役員たちが騒然とする執務室。
「プロデュース……KUREHA……?!」
ざわめきは止まらない。
世界的に名を馳せる建築家、その署名がプロジェクト資料の最後に記されていたからだ。
煌牙は表情を崩さぬまま、静かに言葉を落とす。
「呉羽 月――月猫庵の常連客だ」
京子伯母が来たとき、店で毅然と立ち、あの人に水を浴びせた女性……
彼女は花楓の祖母カティアの友達だった。
カティアの代わりに花楓を見守り続けていた。
だが、その女性が世界的建築家KUREHAだとは誰も想像していなかった。
「ずっと、どうにか残す方法はないかと考えてくれた。そして―自らプロデュースを申し出てくれたんだ」
書類に並ぶ計画案には、伝統的な古民家の趣を残しながら、竹林を望む温泉付きの一棟貸し宿に再生する姿が描かれている。
さらに月猫庵のカフェはそのまま残され、花楓が責任者として名前を連ねていた。
「……世界的建築家が手掛ける“温泉付き別邸”。これ以上の価値はあるまい」
煌牙の一言に、役員たちは押し黙る。
反対を口にしていた者も、やがてその企画書を食い入るように見つめ――
「……確かに、この規模なら海外の顧客も呼べる」
「観光資源としても強みになる……」
会議室の空気は、一気に変わっていった。
(守り抜いた……彼女と、彼女の大切な場所を)
煌牙の胸の奥に、静かな誇りが宿った。
―――
昼下がりの月猫庵。
竹林を渡る風が縁側を抜け、静かな午後の光が差し込んでいた。
店の戸口が開き、凛とした雰囲気を纏う女性が姿を現す。
長い黒髪をひとつにまとめ、シンプルな装いながらも隠しきれない気品を漂わせていた。
「……呉羽さん」
花楓が驚きに目を丸くする。
呉羽 月は穏やかに微笑み、店内をゆっくりと見渡した。
「改めて思うわ……ここには力がある。人を癒す、不思議な力が」
そう言ってカウンターに腰を下ろし、花楓のいれるコーヒーを一口含む。
深く息を吐き、満足げに目を閉じた。
「だから嬉しいの。――この場所の力になれることが」
花楓の胸が熱くなり、言葉を失う。
煌牙が隣に立ち、短く礼を述べた。
「……ありがとうございます」
呉羽は首を横に振り、にっこりと笑う。
「礼なんていらないわ。私はただ……この場所を残したかったの。カティアとの思い出と花楓さんが守ろうとした思いに、私も応えたい。それだけよ」
その声は澄み切っていて、竹林の風と混じり合うように静かに店内に響いた。
花楓は胸に込み上げる想いを抑えきれず、深々と頭を下げる。
「……それでもありがとうございます。本当に……」
呉羽はその姿を見つめ、優しく頷いた。
「さあ、これからよ。月猫庵はもっと多くの人に愛される場所になる。……あなたの手で」
花楓は涙をこらえながら微笑み、力強く頷いた。




