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気づけば、俺は何度も足を運んでいた。
弟・昴流に連れられてきたのが最初だったが、その後は自分の意思で。
翠嵐高峰の喧噪から抜け出し、月猫庵の引き戸を開ける。
それだけで、不思議と肩の力が抜けるようになっていた。
「いらっしゃいませ」
花楓はいつも変わらない笑顔で迎える。
そして、その表情はすぐに変わる。
猫のようにくるくると。
驚けば目を丸くし、嬉しければぱっと頬を赤らめ、失敗すれば照れて唇を尖らせる。
飾らない感情の移ろいが、俺には妙に眩しく映った。
(……コロコロ変わるな)
そう思いながらも、気づけばその一つひとつを追ってしまう自分がいる。
そして何より――彼女は俺を「社長」とも「御曹司」とも呼ばない。
「お客様」として、ただ丁寧に、けれど自然に接してくる。
「コーヒーのお代わり、どうします?」
「今日はランチ、ちょっと多めに作っちゃったんでおまけです!」
その声音に特別扱いはなく、ただ“普通の客”として扱われている。
(まぁ……客だからな)
そう思う。
だが、俺にとってはそれが妙に新鮮だった。
地位も肩書きも抜きにして向けられる視線。
どれだけ役員や親族が「相応しい花嫁」と取り繕っても、俺に向けられる眼差しは計算と打算に満ちていた。
ここには、それがない。
ただ真っ直ぐで、曇りのない眼差しだけがある。
(……楽だな)
カップを傾け、ふと気づく。
久しぶりに「また来よう」と思っている自分がいた。
そしてまた足を運んでしまった。
弟の昴流に茶化されるのも構わず、仕事の合間にわざわざ。徒歩5分の距離…
俺がここに来る理由は、もうはっきりしている。
「いらっしゃいませ」
花楓はいつもと同じ、柔らかな笑顔で迎える。
どの客にも平等に、変わらぬ明るさで。
コーヒーを運び、ランチを並べ、冗談を言えばころころと表情を変える。
その素朴さが、妙に胸を掴んで離さない。
……だが。
(俺は“客”だから、か)
そう思うと、途端に面白くなくなる。
この笑顔は俺のためじゃない。
この優しい眼差しも、俺だから向けられたわけじゃない。
“客”だから……
それだけのこと。
(……それが気に入らない)
背筋に熱が灯る。
仕事で成果を得るのも、ホテルを拡大するのも、すべては俺の選択と努力の結果だ。
だが、彼女の笑顔は――まだ、俺だけのものじゃない。
「……なら、見てやるさ」
思わず声に出そうになり、カップの縁で誤魔化す。
“客”では見られない顔。
打算でも義務でもない、特別な表情。
それを引き出すのは、必ず俺でなければ気がすまない。
客席に座るだけの男で終わるつもりはない。
その日、店は観光客で賑わっていた。
竹林帰りの客が列をなし、花楓は忙しなく働いていた。
小柄な体で笑顔を絶やさず、一人ひとりに丁寧に声をかける姿――その表情を、俺は黙って眺めていた。
だが。
「お姉さん、愛想いいねぇ」
観光客若い男達の一人が、花楓に絡んだ。
「すみません、やめてください」
彼女が下げた声は、真剣だった。
だが男は笑い、わざとらしく手を伸ばし――花楓の胸元に触れた。
瞬間。
耳の奥で血が煮え立つ音がした。
全身を駆け巡る熱。
頭では抑えようとしても、拳はすでに動いていた。
「――汚い手を、下ろせ」
低く響いた声に、店内の空気が凍りついた。
振り返った男の目に、俺の怒りが映る。
湧き上がる怒気は、自分でも抑えられないほどだった。
「な、なんだお前……客だぞ」
「俺も客だ。だが――」
椅子を蹴るように立ち上がり、男の手首を掴む。
軋む音と共に、男が顔を歪めた。
「彼女に、二度と触れるな」
沈黙。
誰も笑わない。
笑い飛ばして茶化そうとした他の客さえ、声を失っていた。
花楓の目が大きく揺れる。
驚きと、戸惑いと―わずかな安堵が、そこにあった。
俺の胸に、さらに熱が広がる。
守りたいという…誰にも触れられたくないという想いが…




