38
創立記念パーティーの後…
静かで穏やかな日々が続いた。
―夕暮れ、月猫庵の暖簾が赤く染まる。
客足が途絶えた店内で、花楓はカウンターの奥から顔を出した。
「今日、兄さん遅いね?」
昴流がカウンターに頬杖をつきながら言う。
「ついでに送ってもらおうと思ってたのに」
花楓は小さく笑みを浮かべた。
「ふふっ、今日は忙しいのかもね。……昴流くん、よかったら賄いなんだけど、カレー食べていかない? お夕飯に」
昴流の瞳がぱっと輝く。
「やった! じゃあ僕、暖簾下げてくるよ。それから片付けも手伝う」
軽やかな声を残して、暖簾を取りに駆けていく。
花楓は鍋の蓋を開け、香り立つスパイスの匂いに胸が和む。
「……昴流くんの“姉さん”って呼び方、なんだか可愛いな」
小さく呟いて、皿を並べ始めた。
戻ってきた昴流が嬉しそうに言う。
「姉さんのカレー、好きなんだ。ホテルの味も美味しいけど、こういう家庭の匂いがするの、落ち着く」
「……ありがとう」
花楓はスプーンを手に取り、微笑む。
―――――――
「ごちそうさま。やっぱり姉さんのカレーは最高だな」
昴流が皿を置いて、にかっと笑った。
花楓も胸の奥が温かくなる。
「ふふっ……そう言ってもらえると嬉しい」
暖簾はもう下ろし、店内は二人きり。他愛のない会話。煌牙の事。学校の事。将来のこと…
閉店後の静けさとスパイスの香りに包まれた、穏やかな時間だった。
――その時。
カラン……。
閉めたはずの扉の鈴が鳴った。
「……?」
昴流が振り返る。
そこに立っていたのは、嫌悪すべき影。
池田眞人だった。
「……眞人……」
花楓の声が震える。
眞人は勝手知ったように足を踏み入れ、にやりと笑った。
「へぇ……閉店後にカレーか。いい匂いだな、家族団欒みたいで」
昴流はすぐに立ち上がる。
「誰だよ、あんた」
眞人は答えず、ポケットからスマホを取り出すと、画面を二人に突きつけた。
そこに映っていたのは――眠る花楓の裸の写真。
「……っ!」
花楓は息を呑み、昴流の目が見開かれる。
「昔の彼女だよ。可愛いだろ? こういう“記念品”は役に立つんだ」
眞人は愉快そうに肩を揺らした。
「やめろ!!」
昴流が叫んで飛びかかる。
だが次の瞬間、眞人の拳が容赦なく振り抜かれた。
鈍い音とともに昴流は床に叩きつけられる。
「がはっ……!」
口の端から血がにじむ。必死に立ち上がろうとするが、眞人の足が容赦なく脇腹を蹴りつけた。
「餓鬼が。御曹司だがなんだか知らねぇけど――お前らは俺のおもちゃだ」
眞人の目が冷たく光る。
花楓は震える声で叫んだ。
「やめて!! 殴るなら……私を殴ればいい!」
昴流が血に濡れた顔で「姉さん……!」と叫ぶ。
だが花楓は必死に彼を庇うように立ちはだかる。
眞人はそんな二人を見下ろし、にやりと笑った。
「ほぉ……いいねぇ。その必死さ。――なら交渉だ。五百万。それと、鷹峰グループにうちの会社との取引を優先してもらう。そうすりゃこの写真は封印してやるよ」
スマホの画面が鈍く光り、二人を脅迫するように照らしていた。




