35
バルコニーで交わした熱い口づけの余韻を残したまま、二人は会場に戻った。
シャンデリアの光が再び降り注ぎ、華やかな喧騒が耳に広がる。
花楓は俯きがちに歩き、俺は平然を装おうとしながらも、まだ心臓の鼓動が収まらない。
――誰にも気づかれていないはずだ。
そう思った矢先。
すれ違いざま、夕樹が俺の肩を軽く叩いた。
兄らしい落ち着いた笑みを浮かべたまま、声を潜めて囁く。
「…………口紅、ついてるぞ? 煌牙」
「……っ!」
一瞬、背筋が凍る。
振り返れば、夕樹は涼しい顔のままワイングラスを傾けていた。
「安心しろ。誰にも言わないさ」
そう言ってウィンクを残し、人混みに紛れていく。
隣の花楓は真っ赤になって、視線を逸らしていた。
耳まで染め上げたその様子に、こちらの方が堪らなくなる。
(……やばい。隠し通せる自信がない)
会場のざわめきの中、俺はただ、彼女の手を離さないように強く握りしめていた。二人を見つけると綾子は歩み寄ってきた。
「花楓ちゃん」
柔らかい声に呼ばれ、花楓はびくりと肩を震わせる。
綾子はにこやかに微笑みながら、彼女の顔をまじまじと覗き込んだ。
「……ふぅん?」
視線が花楓の唇に止まり、次の瞬間――すっと煌牙の方へ。
「ちょ、母さん?」
言う間もなく、ネクタイをがしりと掴まれた。
「なんですかじゃないわよ」
満面の笑みのまま、しかし有無を言わせぬ声で告げられる。
「我慢しろって言ったでしょ? ほら、ちょっと来なさい。久しぶりに説教してやるから」
「ちょ、ちょっと待ってください母さん!」
抵抗もむなしく、まるで犬の首輪を引かれるように会場の隅へと連れて行かれる煌牙。
振り向いて綾子はさらりと言い残す。
「彩織。花楓ちゃんの口紅直してあげて」
「はいはい、任せて」
彩織が笑いながら花楓を座らせ、ポーチから化粧道具を取り出す。
「ほら、じっとしててね。まったく、煌牙ったら……」
顔を真っ赤にしてうつむく花楓と、犬のように引きずられる煌牙。
会場のあちこちで、押し殺した笑い声が弾けていた。
ーー会場の片隅。
俺は母さんにネクタイを掴まれたまま、強制的に連行されていた。
足を止めると、母はふうっと長い溜め息を吐いた。
「まったく……子供の頃から衝動で動くんだから」
呆れながらも、その眼差しは母親らしい厳しさと温かさを帯びている。
やがて母は真顔になり、低く囁いた。
「煌牙。――あの男には気をつけなさい」
「……あの男?」
思わず問い返す。
「さっき廊下で話していたでしょう? 池田眞人」
母さんの声には確信があった。
「いい噂を聞かない男だから」
息を呑む。
「……気づいてたんですか?」
綾子は肩をすくめ、余裕の笑みを浮かべる。
「秘書って、情報が早いのよ」
軽く冗談めかしてみせるが、その瞳は鋭かった。
「しばらく花楓ちゃんを一人にしてはだめよ。いい? あの子を守れるのはあなただけなんだから」
胸の奥に重いものが落ちる。
母さんの忠告は、叱責ではなく確かな警鐘だった。




