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―――3ヶ月前。
弟の昴流に誘われて、俺はその古民家カフェに足を踏み入れた。
竹林の小道を抜けると現れる、静かな木造の建物。
月猫庵
「兄さん、ここ。僕のお気に入り」
昴流は得意げに笑いながら引き戸を開けた。
畳の香りと珈琲の匂いが混じり合い、どこか懐かしい空気が広がっている。
窓辺には季節の草花。飾り気のない素朴さが、逆に心を落ち着かせた。
席に着くと、若い女が軽やかにカップを運んできた。
――オーナー、月代花楓
ハーフなのか…明るい緑色の瞳と、どこか芯の強さを感じさせる仕草。
「お待たせしました。ブレンドです」
湯気の立つコーヒーを口に含んだ瞬間、思わず息が漏れた。
「……美味い」
久しぶりに、心から「美味い」と思った。
苦みと甘みの調和。香ばしさの奥に、温もりがある。
いつからだろう……ただ生きるために食べ、ただ体を動かすために飲むだけになっていたのは。
ここのは、味がする。
さらに出されたランチ――ふっくらと焼き上げられたオムライス。
一口頬張れば、素朴で温かく、胸の奥を揺さぶる懐かしさが広がる。
「ねっ、うまいでしょ?兄さん」
向かいで昴流がニヤける。
「……ああ」
言葉を飲み込みながら、もう一度スプーンを口に運んだ。
「よかった。うちのコーヒー、おじいちゃん譲りで美味しいのよ」
花楓が誇らしげに微笑む。
その笑みを見た瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。
久しく感じたことのなかった、食と人の温度。
(……悪くない)
俺はカップを持ち直し、深く息を吐いた。
この庵に足を運んだのは、弟の気まぐれではなく
―きっと必然だったのだろう。
コーヒーを口に含む俺の前で、花楓は小さな笑みを浮かべた。
「ここ、変わった名前でしょう? 月猫庵って」
昴流がにやにやしながら相槌を打つ。
「兄さん、聞いたら面白いですよ」
花楓は少し照れたように肩をすくめ、それでも真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「おばあちゃん、ロシアの人で名前がカティアっていうの。ロシア語で“猫”に似た響きなんですって。
おじいちゃんは、それをすごく可愛いって言うの……
“猫みたいに愛らしい人”って」
一瞬だけ、彼女の横顔に懐かしむような影が差した。
「それで、おじいちゃんは作ったこのお店に“月猫庵”って名前をつけたんです。
月は月代…おじいちゃん。猫はおばあちゃん。庵は、ここ。二人の思い出が全部詰まった場所」
花楓はあたりを見渡して微笑む。
「……だから私が守るの。おじいちゃんの大切な場所だから」
その声音には、確かな決意があった。
装飾もなく、打算もなく。
ただまっすぐな眼差しで、大切なものを守ろうとしている。
俺はしばし言葉を失った。
役員が押し付けてくる財閥の娘たちには決して見られない強さ。
親戚が重んじる格式や肩書きよりも、ずっと確かな重み。
(……妙な女だ)
だが、不思議と悪くなかった。




