28
リビングに戻ると、花楓がソファにちょこんと座っていた。湯上がりの頬はまだ赤く、両手でマグカップを抱えている。
「……あっ……」
彼女はワタワタと慌ててキッチンへ向かうと、テーブルにカップを置いた。
「コ、コーヒー入れたから……」
視線は泳ぎ、耳まで赤く染まっている。
煌牙はその様子に思わず口元を緩めかけたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「……ありがとう」
そう言って隣に腰を下ろす。
隣に座った途端、花楓の肩がびくりと震えた。
マグカップを握る手に力がこもり、膝の上で落ち着きなく揺れている。
煌牙はその手にそっと触れ、静かに言った。
「……きちんと話す」
花楓は驚いたように顔を上げる。
潤んだ瞳が揺れて、まるで逃げ場を探すようだった。
しかし、煌牙の視線は逃がさない。
契約ではなく、本当の気持ちを――互いに伝える時が来たのだ。
煌牙は花楓の手を取った。
「……あの土地の売買は本当に偶然だ」
静かに、でもはっきりと口を開いた。
花楓の瞳が驚きに揺れる。
「でも、俺もあの店が好きだ。
あのコーヒーも、あの空気も、全部。
あのまま残したい。君の大切な場所を守りたい」
花楓は息を呑み、視線を伏せた。
煌牙はその手を強く包み込む。
「君を好きだと気がついたあと、その土地のことを知って……」
喉が詰まり、言葉がかすれる。
「……嫌われたくなかった。君を手放したくなくて、契約結婚なんて言葉が咄嗟に出たんだ。一緒に一番いい方法であの場所を守れる方法考えたい。側にいて欲しい。」
花楓の肩がわずかに震える。
涙が今にもこぼれそうな瞳で、煌牙を見上げる。
「俺は……あんな形を選んだ。けど、本当は最初から――君が欲しかった」
その声は、今まで誰にも見せたことのないほど弱く、でも誠実だった。
花楓の胸に押し込めてきた想いが、そっとほどけていくようだった。
花楓の涙に濡れた声が、夜の静けさに溶けた。
「……もう……離婚したくないよ……」
その言葉は祈りのようにか細く、それでいて揺るぎない想いだった。
俺の胸にじんわりと熱が広がっていく。
「花楓……」
両手で彼女の頬を包み、額をそっと重ねる。
涙の雫がひとつ、頬を伝い落ちて、互いの温もりに混じった。
「……もう、離さない」
囁きは夜気に溶け、彼女の胸へと沈んでいく。
「……離婚したくない……」
小さく、震える声で繰り返す花楓。
その一言が、心の奥で光を放った。
俺は彼女の唇に、静かに口づけた。
深く求めるのではなく、優しく確かめるように。
触れるたび、涙のしずくが甘い味になって溶けていく。
「……離婚なんて、しない。絶対に。やっと…やっと手に入れたんだ。」
唇を離し、目を閉じて囁いた。
「花楓は……ずっと、俺の妻だ」
彼女は答える代わりに、腕を伸ばし、俺を抱き寄せた。その瞳は涙に濡れながらも、どこか幻想的な輝きを宿していた。
二人を包む夜の静寂は、まるで祝福のように柔らかく優しかった。




