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「……社長」
秘書・木﨑が執務室の扉を閉め、低く告げた。
煌牙は書類に目を落としたまま顔を上げる。
ただならぬ空気に、眉をひそめた。
「……何があった」
木﨑は言葉を選ぶように、一拍置いてから報告した。
「先程、京子様が月猫庵を訪問され……花楓様に対し、金銭を差し出して離婚を迫る発言をなさいました。さらに、“価値のない野良猫”と侮辱を……」
「……っ」
煌牙の拳がデスクを叩き、分厚い木材が低く唸った。
眼差しには烈火のような怒りが宿り、部屋の空気が一瞬で張り詰める。
「……あの女……」
低く唸る声は、獣の咆哮にも似ていた。
だが、すぐに深く息を吐き出す。
怒りに任せて動くことが一番愚かだと、自らを抑え込む。
花楓を守るためには―冷静でなければならない。
煌牙はスマホを取り出し素早く番号を押した。
「……父さんに繋げ」
電話口に出た第二秘書の吉河に短く伝える。
しばらくすると朝紀の落ち着いた声が響く。
『どうした、煌牙?』
煌牙は強く言葉を押し出した。
「……父さん。京子叔母の件で報告がある。――これは黙認できない」
その声には怒りと共に、確固たる決意が込められていた。
受話器越しに、静かな沈黙が落ちる。
煌牙は深く息を吸い込み、低い声で切り出した。
「……俺と、叔父さんのところの娘―弥生との縁談の話なんて、本当にあったのか?」
数秒の間。
電話の向こうで、朝紀が小さく息を吐く音が聞こえた。
『………………?』
思案するような声色。
やがて、軽い調子で答えが返ってくる。
『あったよ。だいぶ前にね。あの人が一族の縁を深めたいとか何とかって色々ごちゃごちゃ言ってきた』
朝紀は苦笑混じりに続ける。
『正直、聞き流して忘れてた。……ごめん、煌牙』
その声は本当に悪びれた様子もなく、むしろ「そんな価値のない話を気にするな」と言外に告げていた。
煌牙は目を閉じ、深く息を吐く。
胸の奥に残る苛立ちは消えなかったが――同時に、父の言葉で答えははっきりした。
あの縁談は、家にとってすら取るに足らない話だったのだ。
(……なら、なおさら―花楓を傷つけさせる理由にはならない)
握りしめた拳に力を込め、煌牙は心に誓った。
スマホの向こうで、朝紀が小さく笑った。
『……私からあちらには伝えておくよ』
その声音には、迷いの欠片すらなかった。
『京子さんの件は任せる。好きにしてみてくれて構わない』
煌牙は息を呑む。
父はこれまで、家のしがらみも役員の声も“管理”し続けてきた。
その父が―息子にすべてを託している。
さらに朝紀は、軽やかに、しかし決定的に言葉を継いだ。
『……この際、あの人とは今後付き合わなくても構わない』
その一言は、鷹峰の家における“絶縁”を意味していた。
煌牙の胸の奥で、重く絡みついていた怒りが溶けるように消えていった。
同時に、父が背を押してくれているという確信が力となる。
「……ありがとうございます、父さん」
深く頭を下げるように言葉を落とすと、スマホの向こうから短い返事が返ってきた。
『――守りたいものを守りなさい。それが私の息子だ』
通話が切れたあとも、煌牙の胸には父の言葉が静かに残り続けていた。




