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その数日間、花楓と煌牙の暮らしは、不思議な緊張感に包まれていた。
同じベッドで眠りについても、背中合わせのまま夜を過ごすことが多い。
朝目覚めても、互いに視線が合えば気まずく微笑んで言葉を濁す。
「……おはよう」
「おはようございます」
どちらも自然に言えるはずの挨拶が、ひどくぎこちなく響いた。
けれど、それでも煌牙は変わらず花楓を送り迎えした。
朝は四条のマンションから月猫庵へ。
夜は閉店した古民家の暖簾を下ろしたあと、必ず迎えに現れる。
並んで歩くその姿は、夫婦のように見えるのに…
だが二人の間には、契約という言葉が未だ壁となって横たわっていた。
昼下がりの月猫庵。
ランチを終え、客足が落ち着いた時間帯に、その人は現れた。
艶やかな和服を纏い、姿勢を崩さずに立つ女性。
その鋭い眼差しと漂う気配は、他の客とは明らかに異なっていた。
「……いらっしゃいませ」
花楓がいつものように微笑みかける。
だが、女性は笑顔を返さず、カウンターに近づくと低い声で名を告げた。
「私は鷹峰京子。朝紀の兄――朱紀の妻よ」
「……え……」
花楓の心臓が大きく跳ねた。
京子はゆったりと席に腰を下ろす。
その所作には品があったが、口を開いた瞬間、冷たい棘が混ざった。
「単刀直入に言うわ。煌牙と別れなさい」
唐突な言葉に、花楓は言葉を失った。周りの常連客もざわめきが起きる。
京子は構わずさらに続ける。
「成り上がりの息子とカフェの女―お似合いといえばそうかもしれないけれど……あの子には利用価値があるの。だから仕方なく、うちの娘と結婚させる話を進めていたのよ」
そう言い放つと、彼女はカバンから分厚い札束を取り出し、カウンターに乱暴に置いた。
五百万の束。
空気がぴんと張り詰める。
「これでいいでしょう?」
花楓はしばし固まったまま、その札束を見つめた。
けれど、やがて震える手を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
「……いりません」
声は震えていたが、瞳は真っ直ぐだった。
「離婚もしません。私は……私は、彼を愛しているんです」
京子の目がわずかに見開かれた。
だがすぐに鼻で笑い、口紅を引いた唇を歪める。
その時――。
常連の女性客が一人、黙って水の入ったグラスを持ち上げた。
そして、ためらいもなく京子に水を浴びせかける。
「帰りなさい。ここは憩いの場よ」
低く、しかし毅然とした声。
常連客の男性からも声が上がる。
「金なんか持って帰りな」
店内が静まり返る中、花楓はただ震えながらも立ち続けた。
冷水を浴びせられても、京子は眉ひとつ動かさない。
濡れた着物の袖を優雅に払い、冷ややかな笑みを浮かべる。
「……所詮、場末のカフェなんてレベルが知れてるわね」
花楓の胸が強く締めつけられる。
大切に守ってきた場所を、あまりにも簡単に踏みにじられた。
京子はゆったりと立ち上がり、整えた髪を指で払った。
「煌牙に伝えておくわ。――早く離婚しなさいって」
静まり返る店内に、彼女の声だけが響く。
「価値のない野良猫とは縁を切りなさい、ってね」
吐き捨てるように言い残し、京子は踵を返し月猫庵を後にする。
残された花楓は、唇を噛みしめ、俯いたまま動けなかった。胸の奥が痛みでいっぱいになりながらも――それでも涙だけは見せまいと、必死に堪えていた。
常連の女性客がそっと肩に手を置いた。
「……気にしない。花楓ちゃんは、この場所を守ればいい」
その言葉に花楓は小さく頷き、握った拳を震わせた。
心の中で繰り返す。
(……たとえ契約でも今はまだ私は、煌牙さんの花嫁だから…)




