21
浴室の扉が開き、湯上がりの花楓がリビングに戻ってきた。
髪はまだ少し濡れていて、パジャマ姿のままタオルで拭いている。頬はほんのり上気し、柔らかな石鹸の香りが漂った。
「……お待たせしました」
彼女は遠慮がちに微笑み、ソファに座る煌牙を見つめる。
煌牙は喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
彼女が言いかけて止めた、その続きを――どうしても聞きたい。
だが、もしも。
その先にあるのが“彼といるのは契約だから”や“好きじゃない”だったなら…
その答えを受け止められる自信はなかった。
(……聞けない)
大勢の役員を前にしても、取引先から交渉の席でどんな圧力をかけられても怯まない。
けれど、たったひとりの女性の心の内を問うことが、これほどまでに恐ろしいとは。
「……大丈夫か?」
ようやく口から出たのは、当たり障りのない問いだった。
花楓は小さく頷き、濡れた髪をタオルで押さえながら笑みを浮かべた。
「はい。少しすっきりしました」
その笑顔を見て、煌牙は胸の奥が切なく軋むのを感じた。
(……俺はあと残りの時間がすぎた後、彼女を手放す自信がない…)
入れ替わりで浴室に入った煌牙…
熱い湯がシャワーヘッドから流れ落ちる。
煌牙は壁に手をつき、俯いたまま肩で息をしていた。
(……かっこ悪い)
あれほど堂々と花楓を守ると誓ったのに。
たった一人の女性の心に踏み込むことができない。
(……情けない)
胸が苦しい。
花楓の言葉が頭から離れない。
その続きを知りたいのに、聞けない。
煌牙は湯に濡れた髪を掴み、唇を噛んだ。
(俺は……どれだけ強がっても、あいつの一言で崩れる)
湯が肌を叩き、流れていく。
だが心の奥に絡みついた焦燥と恐怖は、簡単には洗い流せなかった。
それでも、彼女を手放すつもりなどない。
――契約ではなく、妻として。
必ず、自分の隣に残す。
煌牙は目を閉じ、荒く乱れる心を湯気に溶かすように、深く息を吐いた。
シャワーを終え、髪をタオルで拭きながらリビングへ戻る。
そこにいたのは、湯上がりの花楓。
ソファに座り、コーヒーカップを両手で抱えながら、小さく微笑んでいた。
「……コーヒーでいいですか?」
いそいそと席を立つその声はいつもと同じ、優しい響きだった。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(……どうして、そんな顔をするんだ。……君は俺の心臓をこんなにも乱す)
けれどその笑顔から目を離すこともできなかった。
一方で花楓も、心の中で呟いた。
(煌牙さんの顔見るの照れる…
でもこれは契約。私が好きだと思っても、彼にとっては重荷になるだけ……)
微笑むしかなかった。
好きだと伝えたいのに、契約がその言葉を喉で塞ぐ。
交わることのない二つの想い。
けれど確かに、同じ夜、同じ場所で高鳴っていた。
――ただ「好きだ」とひとこと言えたなら。
それだけで、この胸を締め付ける痛みは解けるのに。
静かなリビングに、二人の沈黙が重なっていった。




