19
昴流と別れたあと、片付けのためにカウンターに立った。
食器を磨きながら、花楓の胸は落ち着かない鼓動を刻んでいた。
(……昴流くんに言われて気づいた。私……)
視線の端に浮かぶのは、煌牙の姿。
不器用で、強引で、でもいつも自分を守ってくれた。
その背中を思い浮かべるだけで、胸がじんわりと熱を帯びる。
(……私、好きなんだ。煌牙さんのこと……)
けれど、同時に冷たい現実が心に突き刺さる。
――契約。
彼は言っていた。
お見合いが煩わしい、仕事に集中したい。
そのために“花嫁”という役割が必要だったのだ、と。
(私は……そのための妻。契約の、花嫁)
気づいた気持ちを抱えたまま、言葉にはできない。
彼が本気で愛してくれるはずがない、と心の奥で自分に言い聞かせる。
磨いたグラスに映る自分の顔は、笑おうとしてもどこかぎこちなく歪んでいた。
(……この想いを、知られちゃいけない)
その胸の奥で揺れる切なさを隠しながら、花楓はそっとグラスを棚に戻した。
カウンターの奥で、そっと手を止める。
(……私だって、わかってたはずなのに)
(好きになっちゃいけないのに)
契約結婚――それは自分のためでもあった。
月猫庵を守りたい一心で、彼の申し出に頷いたのだ。
(私も……ここを守るために選んだ契約結婚だった)
そのはずだったのに、今の自分は何をしているのだろう。
彼の声ひとつ、仕草ひとつに、こんなにも心が揺れる。
(今さら……好きなんて、都合が良すぎるよね……)
グラスの透明な表面に映る自分の顔が、滲んで見える。
唇を噛んで、無理やり笑顔をつくる。
契約の枠を、自分から越えてしまえば、すべてが壊れてしまう。
そのとき。
カラカラと引き戸を開ける音がした。
閉店後の静寂を破る足音に、花楓は慌てて袖で目元を拭った。
「……花楓」
低く落ち着いた声。
振り返れば、煌牙がそこに立っていた。
背広姿で彼女を見つめている。
「……煌牙さん」
かすれる声で呼ぶと、彼は迷わず歩み寄ってきた。
赤く縁取られた瞳に気づき、眉を寄せる。
「……どうした? 泣いてたのか」
大きな掌が、ためらいなく頬に触れる。
その温かさに、花楓の心臓は跳ね上がった。
「い、いえ……大丈夫です」
慌てて首を振るが、声は震えていた。
「……大丈夫に見えない」
低い声で、彼はじっと見つめる。
花楓は視線を逸らし、唇を噛む。
「ほんとに……大丈夫だから。目にゴミが入って痛くて」
けれど頬を撫でる手の温かさに、心の奥の堰が揺らぐ。もうすぐ零れてしまいそうな涙を、必死に堪えながら声を絞った。
煌牙の指先が花楓の頬から離れ、代わりにその瞳をまっすぐに見つめた。
沈黙の中、低く掠れた声が落ちる。
「……抱きしめてもいいか?」
唐突な言葉に、花楓は息を呑む。
「えっ………」
答えを探す間もなく、煌牙の大きな腕がゆっくりと彼女を包み込んだ。
その胸に押し寄せる温もりは、驚くほど優しくて強い。
「……泣く時は、側にいてやるから」
耳元に響く声は、穏やかで揺るぎない。
「一人で泣くな」
花楓の胸の奥で、張りつめていた糸がぷつりと切れた。
「……っ」
抑えていた涙が頬を伝い、煌牙の胸を濡らす。
その言葉に、花楓はもう抗えなかった。
胸の奥に隠していた想いも、不安も、すべて彼の温もりに溶けていくようだった。
夜の月猫庵。
静かな店内に、花楓の小さな嗚咽と、煌牙の優しい囁きだけが響いていた。




