15
花楓との日々は穏やかに過ぎていった。
買い物に出かけ、夕飯を共にし、夜は並んで眠る。
そんな平穏な結婚生活が、もっと前から続いていたかのように馴染んでいく。
そんな平穏の中である日、静かな執務室に電話の着信音が響いた。
画面に表示された名前を見て、煌牙はすぐに応答する。
「……お疲れ様です。会長。」
低く落ち着いた声の向こうで、朝紀の声音が告げる。
『今週末の朝食会……花楓さんを連れてきなさい』
胸の奥が一瞬ざわめいた。
いよいよか――。
覚悟を決めた煌牙は短く「……わかりました」とだけ返し、通話を切った。
机の上に置かれたペンを指先で転がす。
視線の先に浮かんだのは、あの日の記憶。
――婚姻届の証人欄。
昼食を共にしながら、父に頭を下げて頼んだ日のこと。
「……どうしてこんな急な話に?」
箸を置き、朝紀は静かに問いかけた。
煌牙は息を整え、真正面から答える。
「あの場所を守りたいのもあります。……でも、それ以上に」
言葉が途切れ、拳がわずかに震える。
どうしようもなかった。
彼女に恋をしていた。
普通の恋人として過ごす時間さえ惜しい。
どうしても――彼女を手に入れたかった。
「愚かな手段だとは、わかっています」
低く吐き出すように言葉を続ける。
沈黙ののち、父は深く頷き、婚姻届にペンを走らせた。
「…………わかった」
重みのある声。
「ただし、一年後。彼女の心が君になければ、約束どおり誠意を持って離婚しなさい」
真っ直ぐな眼差しが、煌牙を射抜く。
「守ると決めたなら――最後まで守り通せ」
インクの跡が刻まれたその瞬間から、煌牙の覚悟は逃げ場を失った。
愚かでもいい。
契約でもいい。
彼女の隣を手放すことだけは、絶対にできないのだから。




