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月猫庵の花嫁様 〜俺様社長に嫁入り!?〜  作者: 愛龍


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昼過ぎ…


「おかえりなさい」


花楓が当たり前のように声をかける。彼女の育った環境がそうさせるんだろう。


「……ただいま」

煌牙はわずかに照れた声で応え、手にした封筒を差し出した。


「昼ご飯を食べに行こう。――あと、これを」


差し出されたのは、薄い紙の束。

目にした瞬間、花楓は息を呑む。


「……婚姻届……」


証人欄には、すでに名前が記されていた。

整った筆跡。そして、夫となる名―鷹峰 煌牙の欄も、すでに記入済みだった。


「……これに、君が書けばいい」

煌牙の声は静かだったが、どこか切実さを帯びていた。


花楓は用紙を握りしめ、しばし見つめる。


ここに名前を書いたら――

その瞬間から、自分は「月代花楓」ではなくなる。


(……私、本当に……鷹峰の人になるんだ)


胸の奥で震えが広がる。

けれども同時に、煌牙の視線が強く背中を押していた。


「……一年後、離婚」

花楓は小さく呟いた。


それで守れるものがある。

おじいちゃんとおばあちゃんの思い出が詰まった場所。


自分の手で続けたいと願った庵。

そのためなら――。


震える手を紙の上に置く。

ペン先がかすかに震えて滲み、胸の奥も同じように揺れていた。


(……私がこの名前を書くということは)


月代花楓ではなくなる。


契約とはいえ、鷹峰という名を背負うことになる。

重みが肩にのしかかる。


それでも、彼の視線がまっすぐに自分を見つめているのを感じた。


ただ「守る」と言った、あの声の響きが支えてくれる。


深く息を吸い、花楓は覚悟を決めた。


ペン先が走る。

用紙に名前が刻まれた瞬間、月代花楓は“鷹峰花楓”になった。


――婚姻届は、あっけないほど事務的に処理された。

窓口の職員が淡々と印を押し、受理印の朱が紙に刻まれる。その一瞬で、二人の関係は「夫婦」へと変わった。


形式的には。

 

二人は車に乗り込み、京都の郊外へ向かった。


スーパーで並ぶ野菜を手に取る花楓。

隣で黙ってカゴを持つ煌牙。

「これ、どうだ?」

「こっちのほうが安いよ」

そんな会話を交わすだけで、まるで普通の夫婦のようだった。


(……婚姻届のときより、ずっと“夫婦”に見える)

花楓は胸の奥でひそかに思った。


煌牙は横顔をちらりと見て、わずかに口元を緩めた。

(……悪くない。いや……これがいい)


契約から始まった結婚。

けれど、その買い物かごには、確かな「日常」が詰まっていった。


スーパーの袋を後部座席に積み込み、ドアを閉める。

助手席では花楓がシートベルトを締めていた。


「ありがとう御座います、鷹峰さん」

花楓が小さく礼を言う。


その声を聞いた瞬間、煌牙はわずかに眉を寄せた。

ぐっと身をかがめ、助手席の彼女に顔を近づける。


「……煌牙だ」


「え……」


「君の夫だ。鷹峰さん、なんて変だろ」


その声音は低く、甘さを含んでいた。

距離が一気に縮まり、花楓の目が大きく揺れる。

息が触れ合いそうなほど近い――まるでキスされる直前の距離。


「ほら……」

囁くように促す。


「こ……」

頬を赤くしながら、震える声が零れる。

「……煌牙さん」


その一言に、煌牙の唇が満足げにわずかに上がった。


「それでいい」


エンジンがかかる音が静寂を破り、車はゆっくりと走り出した。


だが花楓の鼓動は、まだ収まらなかった。


車は渋滞抜け、街路樹の影を映しながら京都市街に向けて静かに走っていた。


沈黙の中、煌牙がふと口を開く。


「……俺はなんて呼べばいい?」


片手でハンドルを操作しながら、横目でちらりと花楓を見る。

「かえちゃん? かえでさん?」


「……っ」

不意を突かれ、花楓は頬を赤く染めた。

少し迷い、けれど小さな声で答える。


「……花楓でいいですよ」


ほんのわずかな沈黙。

そして、低く落ち着いた声が響いた。


「……花楓」


自分の名を呼ばれただけなのに、胸の奥が一気に跳ね上がる。

声が心臓に直接触れたみたいで、耳の奥まで熱くなる。


「…………っ」

花楓は思わず窓の外に視線を逸らした。

しかしその横顔を見つめながら、煌牙は満足そうに目を細める。


(――もう、“鷹峰さん”じゃない。俺の妻、花楓だ)


車内の空気が、少し甘く、そして確かに夫婦らしいものへと変わっていった。



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