12
昼過ぎ…
「おかえりなさい」
花楓が当たり前のように声をかける。彼女の育った環境がそうさせるんだろう。
「……ただいま」
煌牙はわずかに照れた声で応え、手にした封筒を差し出した。
「昼ご飯を食べに行こう。――あと、これを」
差し出されたのは、薄い紙の束。
目にした瞬間、花楓は息を呑む。
「……婚姻届……」
証人欄には、すでに名前が記されていた。
整った筆跡。そして、夫となる名―鷹峰 煌牙の欄も、すでに記入済みだった。
「……これに、君が書けばいい」
煌牙の声は静かだったが、どこか切実さを帯びていた。
花楓は用紙を握りしめ、しばし見つめる。
ここに名前を書いたら――
その瞬間から、自分は「月代花楓」ではなくなる。
(……私、本当に……鷹峰の人になるんだ)
胸の奥で震えが広がる。
けれども同時に、煌牙の視線が強く背中を押していた。
「……一年後、離婚」
花楓は小さく呟いた。
それで守れるものがある。
おじいちゃんとおばあちゃんの思い出が詰まった場所。
自分の手で続けたいと願った庵。
そのためなら――。
震える手を紙の上に置く。
ペン先がかすかに震えて滲み、胸の奥も同じように揺れていた。
(……私がこの名前を書くということは)
月代花楓ではなくなる。
契約とはいえ、鷹峰という名を背負うことになる。
重みが肩にのしかかる。
それでも、彼の視線がまっすぐに自分を見つめているのを感じた。
ただ「守る」と言った、あの声の響きが支えてくれる。
深く息を吸い、花楓は覚悟を決めた。
ペン先が走る。
用紙に名前が刻まれた瞬間、月代花楓は“鷹峰花楓”になった。
――婚姻届は、あっけないほど事務的に処理された。
窓口の職員が淡々と印を押し、受理印の朱が紙に刻まれる。その一瞬で、二人の関係は「夫婦」へと変わった。
形式的には。
二人は車に乗り込み、京都の郊外へ向かった。
スーパーで並ぶ野菜を手に取る花楓。
隣で黙ってカゴを持つ煌牙。
「これ、どうだ?」
「こっちのほうが安いよ」
そんな会話を交わすだけで、まるで普通の夫婦のようだった。
(……婚姻届のときより、ずっと“夫婦”に見える)
花楓は胸の奥でひそかに思った。
煌牙は横顔をちらりと見て、わずかに口元を緩めた。
(……悪くない。いや……これがいい)
契約から始まった結婚。
けれど、その買い物かごには、確かな「日常」が詰まっていった。
スーパーの袋を後部座席に積み込み、ドアを閉める。
助手席では花楓がシートベルトを締めていた。
「ありがとう御座います、鷹峰さん」
花楓が小さく礼を言う。
その声を聞いた瞬間、煌牙はわずかに眉を寄せた。
ぐっと身をかがめ、助手席の彼女に顔を近づける。
「……煌牙だ」
「え……」
「君の夫だ。鷹峰さん、なんて変だろ」
その声音は低く、甘さを含んでいた。
距離が一気に縮まり、花楓の目が大きく揺れる。
息が触れ合いそうなほど近い――まるでキスされる直前の距離。
「ほら……」
囁くように促す。
「こ……」
頬を赤くしながら、震える声が零れる。
「……煌牙さん」
その一言に、煌牙の唇が満足げにわずかに上がった。
「それでいい」
エンジンがかかる音が静寂を破り、車はゆっくりと走り出した。
だが花楓の鼓動は、まだ収まらなかった。
車は渋滞抜け、街路樹の影を映しながら京都市街に向けて静かに走っていた。
沈黙の中、煌牙がふと口を開く。
「……俺はなんて呼べばいい?」
片手でハンドルを操作しながら、横目でちらりと花楓を見る。
「かえちゃん? かえでさん?」
「……っ」
不意を突かれ、花楓は頬を赤く染めた。
少し迷い、けれど小さな声で答える。
「……花楓でいいですよ」
ほんのわずかな沈黙。
そして、低く落ち着いた声が響いた。
「……花楓」
自分の名を呼ばれただけなのに、胸の奥が一気に跳ね上がる。
声が心臓に直接触れたみたいで、耳の奥まで熱くなる。
「…………っ」
花楓は思わず窓の外に視線を逸らした。
しかしその横顔を見つめながら、煌牙は満足そうに目を細める。
(――もう、“鷹峰さん”じゃない。俺の妻、花楓だ)
車内の空気が、少し甘く、そして確かに夫婦らしいものへと変わっていった。




