11
浴室から出て、寝室を覗いたが花楓の姿はなかった。
嫌な胸騒ぎを覚えつつリビングへ向かうと、香ばしい匂いが鼻をかすめる。
台所に立っていたのは、もうすっかり身支度を整えた花楓だった。
髪を後ろで束ね、袖をまくって手早くフライパンを動かしている。
その姿は、まるでこの場所にずっと住んでいたかのように自然だった。
「あっ、あるもので朝ごはん作って……」
花楓は気まずそうに振り返る。
「あの、今日お店お休みなので、買い物してきてもいいですか?」
その言葉で、煌牙はようやく思い出した。
(月猫庵……確か今日は定休日だ)
スーツの上着に手を伸ばしながら、煌牙はビジネス手帳を広げた。
午前中の会議に目を通し、素早く予定を組み替える。
「……それなら、午後買い物に行こう。車を出す」
落ち着いた声で言いながら、視線の奥は決意に満ちていた。
「あと――婚姻届も出したい」
花楓が一瞬、手を止める。
「えっ……今日、ですか?」
「そうだ」
煌牙は短く頷いた。
(1分でも、1秒でも早く……“結婚した”という事実がほしい)
口には出さず、胸の奥でそう呟く。
それはただの契約書にハンコを押すのとは違う、もっと本能的なものだった。
目の前で朝食を用意する彼女の姿が、煌牙の胸に“自分の家”という言葉を初めて呼び覚ましていた。
テーブルに並んだのは、フレンチトーストと野菜スープと目玉焼き…質素だが、どこか温かさを感じる朝食だった。
煌牙は手に取り、一口。
口に広がる香ばしさと柔らかさに、思わず動きを止める。
「…………美味い」
自分でも驚くほど素直な声が漏れた。
独り暮らしを始めてから、朝食会以外はエナジーゼリーで済ませるのが常だった。
ただ生きるために流し込むだけのもの。
このマンションでまともな食事をしたのは、いつ以来だろうか。
「よかった……」
花楓が少し照れたように笑う。
その笑顔を見た瞬間、煌牙の胸の奥で、なにか硬い氷のようなものが溶けていくのを感じた。
(……この温もりを、二度と手放すつもりはない)
靴を履き終え、鞄を手に取ったところで、背後から声がした。
「行ってらっしゃい」
花楓はにこりと笑いながら、ごく自然にそう告げた。
本当に、なんでもないように。
それは昔からそうしてきた妻のように、自然すぎる響きだった。
一瞬、煌牙は足を止める。
(……警戒心とか、ないのか? 俺に対して……)
思わずそんな疑念が頭をよぎる。
だが、そのまっすぐな笑顔を見ていると、胸の奥が不思議と熱くなる。
「…………いってきます」
低く呟いた。
普段、一切使うことのない言葉。
それがやけに照れくさく、口の中で少し転がるような感覚だった。
エレベーターの扉が閉まる直前まで、花楓の笑顔が視界に残っていた。
(……これが毎日なら…いいな)
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
マンション前に黒塗りの車が停まっていた。
運転席には秘書の木﨑。ドアを開けて深々と頭を下げる。
「午後から予定はすべて調整済みです。会議も委任の形にしてあります」
淡々と報告を終え、車は静かに四条通を抜けていく。
後部座席で予定表を確認し終えた煌牙は、短く頷いた。
「助かる」
バックミラー越しに木﨑がちらりと視線を送る。
一瞬ためらいながらも、口を開いた。
「……社長、楽しそうですね?」
思いがけない指摘に、煌牙の眉がわずかに動いた。
窓の外、古都の町並みを眺めながら、ほんの少し口元を緩める。
「……まぁな」
それだけを答えた。
木﨑は驚いたように目を瞬かせ、すぐに無表情に戻ったが―その一瞬の“覇王”の柔らかさは、確かに車内の空気を変えていた。




