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月猫庵の花嫁様 〜俺様社長に嫁入り!?〜  作者: 愛龍


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浴室から出て、寝室を覗いたが花楓の姿はなかった。

嫌な胸騒ぎを覚えつつリビングへ向かうと、香ばしい匂いが鼻をかすめる。


台所に立っていたのは、もうすっかり身支度を整えた花楓だった。

髪を後ろで束ね、袖をまくって手早くフライパンを動かしている。

その姿は、まるでこの場所にずっと住んでいたかのように自然だった。


「あっ、あるもので朝ごはん作って……」

花楓は気まずそうに振り返る。

「あの、今日お店お休みなので、買い物してきてもいいですか?」


その言葉で、煌牙はようやく思い出した。

(月猫庵……確か今日は定休日だ)


スーツの上着に手を伸ばしながら、煌牙はビジネス手帳を広げた。

午前中の会議に目を通し、素早く予定を組み替える。


「……それなら、午後買い物に行こう。車を出す」

落ち着いた声で言いながら、視線の奥は決意に満ちていた。


「あと――婚姻届も出したい」


花楓が一瞬、手を止める。

「えっ……今日、ですか?」


「そうだ」

煌牙は短く頷いた。


(1分でも、1秒でも早く……“結婚した”という事実がほしい)


口には出さず、胸の奥でそう呟く。


それはただの契約書にハンコを押すのとは違う、もっと本能的なものだった。


目の前で朝食を用意する彼女の姿が、煌牙の胸に“自分の家”という言葉を初めて呼び覚ましていた。

テーブルに並んだのは、フレンチトーストと野菜スープと目玉焼き…質素だが、どこか温かさを感じる朝食だった。

煌牙は手に取り、一口。

口に広がる香ばしさと柔らかさに、思わず動きを止める。


「…………美味い」


自分でも驚くほど素直な声が漏れた。

独り暮らしを始めてから、朝食会以外はエナジーゼリーで済ませるのが常だった。

ただ生きるために流し込むだけのもの。

このマンションでまともな食事をしたのは、いつ以来だろうか。


「よかった……」

花楓が少し照れたように笑う。


その笑顔を見た瞬間、煌牙の胸の奥で、なにか硬い氷のようなものが溶けていくのを感じた。


(……この温もりを、二度と手放すつもりはない)


靴を履き終え、鞄を手に取ったところで、背後から声がした。


「行ってらっしゃい」


花楓はにこりと笑いながら、ごく自然にそう告げた。

本当に、なんでもないように。

それは昔からそうしてきた妻のように、自然すぎる響きだった。


一瞬、煌牙は足を止める。

(……警戒心とか、ないのか? 俺に対して……)

思わずそんな疑念が頭をよぎる。


だが、そのまっすぐな笑顔を見ていると、胸の奥が不思議と熱くなる。


「…………いってきます」


低く呟いた。

普段、一切使うことのない言葉。

それがやけに照れくさく、口の中で少し転がるような感覚だった。


エレベーターの扉が閉まる直前まで、花楓の笑顔が視界に残っていた。


(……これが毎日なら…いいな)


小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


マンション前に黒塗りの車が停まっていた。

運転席には秘書の木﨑。ドアを開けて深々と頭を下げる。


「午後から予定はすべて調整済みです。会議も委任の形にしてあります」

淡々と報告を終え、車は静かに四条通を抜けていく。


後部座席で予定表を確認し終えた煌牙は、短く頷いた。


「助かる」


バックミラー越しに木﨑がちらりと視線を送る。

一瞬ためらいながらも、口を開いた。


「……社長、楽しそうですね?」


思いがけない指摘に、煌牙の眉がわずかに動いた。

窓の外、古都の町並みを眺めながら、ほんの少し口元を緩める。


「……まぁな」


それだけを答えた。


木﨑は驚いたように目を瞬かせ、すぐに無表情に戻ったが―その一瞬の“覇王”の柔らかさは、確かに車内の空気を変えていた。



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