10
その夜、ふたりは同じベッドに横になった。
キングサイズのはずなのに、不思議と近く感じる距離。
花楓はしばらく緊張したように目を閉じていたが、やがて小さな寝息を立て始めた。
(……意外と、すんなり寝たな)
煌牙は背中を向けたまま、目を開けていた。
横にいる彼女の体温と香りが、いつもの冷たいシーツとは違う。柔らかくて現実的な温もりを運んでくる。
その時、花楓が寝返りを打ち、無意識に煌牙の背にしがみついた。細い腕が彼の腰に絡まり、頬が肩口に触れる。
―背中がびくりと固まる。
(……手が出せないって……どんな試練だよ)
頭の中で苦笑する声がした。
だが、その背中の温もりを、離そうとする自分はいなかった。
静かに息を吸う。
振り向くことさえ、怖いほど胸が熱い。
(……もう、誰にも渡さない)
ゆっくりと、花楓の肩に手を回し、彼女を抱き寄せた。
寝顔がほんの少し緩んで、彼の胸にもたれかかる。
(……一年後、泣いても離婚なんてするつもりはない。絶対に……“愛してる”と言わせてやる)
その誓いは、誰にも聞こえない。
ただ月明かりだけが、静かにふたりを照らしていた。
――眩しい朝の光が、分厚いカーテンの隙間から差し込む。
まだ夢の世界にいた花楓が、ふと目を開け―自分の体が誰かに抱かれていることに気づいた。
「ひ、ひゃっ……!!」
悲鳴を上げて飛び起きる。
「えっ、襲わないって……言ってたのに……!」
「…………っん……」
寝ぼけた声で、煌牙が頭を掻きながら起き上がる。
「襲ってない。君からしがみついてきたんだ」
「……っ」
花楓の頬が一瞬で赤くなる。
脳裏に、ぼんやりとした記憶。
自分は昔から、ぬいぐるみでも枕でも人でも、何かにしがみついて寝る癖があった。
「ご、ごめんなさい……私、昔から……」
視線を逸らしながら呟く。
「前の彼氏にも、それ……言われて…………」
その瞬間、煌牙の眉がぴくりと動いた。
瞳の奥に、かすかな光が走る。
(……前の、彼氏……?)
胸の奥に、言葉にならないざらつきが広がる。
花楓が罪悪感で肩をすくめるその姿さえ、妙に胸をかき乱した。
「……そうか」
短く呟いたその声は、驚くほど低く、どこか熱を帯びていた。
「俺はぬいぐるみじゃない――」
短く吐き捨てて、煌牙は洗面台へ向かった。
冷たい陶器に手をつき、鏡の中の自分を見下ろす。寝ぐせのついた髪、まだ寝ぼけたように震えるあの子の姿。胸の奥の、焦げつくような嫌な感触が消えない。
無意識に蛇口をひねり、シャワールームへ入る。熱い水が全身を叩く。湯気の中で、音だけが鋭く響く。
「……………くそっ、ムカつく」
水の向こうで、声にならない吐息が漏れる。
花楓の口から出た〈前の彼氏〉という言葉が、頭の中で繰り返される。どんな男だったのか。どんな距離で、どんなふうに彼女に触れていたのか。想像するだけで、胸の奥が鋭く裂ける。
殺意――という言葉がふっと浮かんで、ぞっとする。
だがその先に続くのは、破滅を望む感情ではない。
嫉妬と独占欲が入り混じった、もっと厄介で生々しい決意だ。
(誰にも、あの笑顔を渡さない)
水が肩を伝い、冷静さを取り戻させる。怒りの熱を奪い、理性が戻ってくる。拳を固め、爪先で床を押し返す。
鏡に映る己の目を見据え、低く呟いた。
「感情に流されるな。守るんだ。そして手に入れる」
蒸気の中で何度か深呼吸を繰り返し、体温が落ち着くのを待つ。
冷静に、確実に。役員や土地の問題を片づけ、彼女の世界を壊させないための手を打つ――それが今自分にできる守り方だ。
シャワーを止めると、水滴を振り払い、タオルで顔を拭きながら小さく笑った。
(俺が手に入れるものは、全て手に入れる)
そして、静かに浴室のドアを開け寝室へ戻った。




