第2話:神からの想い
※本作には、流血や残酷描写など、刺激の強い表現が含まれます。
苦手な方はご注意下さい。
まだ夜明け前なのに、目が覚めた。
隣にあるはずの笑顔が、もうそこにない。
不気味な静寂が、部屋の空気を凍らせている。
不安と葛藤に、押し潰されそうだ。
「寒っ!」
僕は布団からゆっくり起き上がる。
そして、痩せ細った足で、氷の張った水の上を歩くように、冷たく狭い廊下を進む。
「ん、暗いな。」
薄暗い廊下は壁紙が剥がれかけ、雨の日が続くとさらに痛んでしまう。
歩くと木の軋む音が、廊下に響き渡る。
廊下を進んだ先には、椅子に座る父さんの姿があった。
「父さん。彩葉は……」
「自然、聞いてくれ。
彩葉が、死んだ。」
「……は?」
血の気が引き、息を呑んだ。
目に映ったのは、彩葉の悲惨な姿。
綺麗な黒い瞳は、もう光を失っていた。
「あ……あ……うっ…」
口に手を当てたが間に合わず、吐物が床に散った。
中には、昨日の素朴な夕食が少々混じっている。
「なんで……彩葉が?おかしいだろ!
お前が殺したのか!」
違うとわかっている。
けれど感情が溢れ、理性が保てなかった。
怒りと恐怖に支配され、父さんの襟を掴む。
「お前が……彩葉を……!」
父さんを責めたい訳ではない。
それなのに、受け継いだ鋭い目で、自然と睨んでしまった。
「自然……すまない。
守るって、あんなに言ったのに。
彩葉は、自……自殺してしまった。
本当にすまない。」
父さんは、肩を小さく震わせ、涙を拭い、深く頭を下げている。
元気だった頃の面影は、もうはっきりとは思い出せない。
「自殺……?」
心の奥底ではわかっていた。
それでも、この事実を否定したかった。
涙が出てこない。出そうとしても、出ない。
でも、せめて流したかった。
「自然。血が……」
唇を噛み、指の間からも、血が漏れ出ている。
父さんからの「大丈夫か?」という声は、僕に届くことはなかった。
彩葉の肌はより青白く、冷たかった。
体の温もりは、もう完全になくなっている。
混ざった匂いが鼻を突き、僕の胸を抉っていく。
それでも、彩葉に謝ることだけが、僕に残された最後の行為だった。
「彩葉、ごめん。
気遣いも何もしてあげられなかった。
僕は、ゴミで、役立たずだ。」
「自然、違う。
役立たずなのは父さんの方だ。
家族を守るのが、父親としての務めなのに。」
違う。これは誰のせいでもない……
「これからは、彩葉の分も二人で生きていこう……。」
息が詰まるほど、抱きしめられた。
それでも、視界が少しも滲むことはない。
"泣く"という感情が、もう僕の中に残っていないから。
ああ、視線を逸らしたい。
頷くこともできず、全身の力が抜けていく。
目の前の父さんを、もう見れない。
僕の心に残っているのは、喪失感だけ。
瞬きすら、できない。
まるで、瞬きをする思考さえも、僕から消えたかのようだ。
目を瞑るたび、あれが頭に浮かぶ。
また胃の奥から、怒りと後悔が逆流しそうになる。
「……ごめん。父さん。」
父さんを振り払い、外へ飛び出した。
どうしても、外の冷たい空気を吸わずにはいられなかった。
——気持ち悪い…………
ふと見上げると、夜明け前の空は広く澄んでいた。悲劇を受け止めてくれるかのように。
人々の声よりも、街に立つ木々の音の方が鮮明に聞こえる——。
「自然」と名付けられた僕だけど、この世界とは隔たりを感じる。
はぁ……もう疲れた。
その時、遠くから歓声が聞こえた。
「おお!あの子が!」
「あの子が、神々に選ばれた子なのですね。」
他の住人は顔を出していない。
僕のことを言っているのか。
アパートから数十メートル離れた場所から、次々に歓声が届く。
「なんて運がいいんだ!」
「神幸日で選ばれるとは!」
神幸日で選ばれた人は、一生分の幸運を得られるはずだ。
……待て、でも彩葉は?
これは、神が関係しているのか……?
「神様よ!ありがたき幸せだー!」
「あの子は本当に恵まれてる。」
彩葉は、自殺したんじゃない。
神によって、殺されたんだ。
その真実を理解した瞬間、心の奥底の炎が一気に燃え上がった。
「黙れ……」
気づけば言葉が漏れていた。
またあれが、頭に浮かぶ。
「300年という月日は長かったな。」
「神幸日で選ばれた子がいると聞いてきたぞ!」
子供も、大人も、年寄りも、歓声を上げている。
目の前の光景が、心を焼き尽くし、理性を奪っていく。
怒りと絶望が、身体中に震えとして流れていく。
幸運?恵まれた子?
違う!何もかも、違うんだ!
彩葉はもう、いない。
冷たく、動かなくなったんだ。
「ありがたき幸せです。」
「誠に感謝いたします。」
やめろ。やめろよ……。
指先で腕を引っ掻く。痛みが、僕を現実に引き戻してくれる。
これ以上は、耐えられない——!
心の奥が、砕けてしまう。
「黙れ!」
前日の幻想は、君が救ってくれた。
だが、もういない。
君がいないと、こんな結末になるんだな。
僕はアパートの扉を閉めた。
夜明け前だというのに、人々が外に集まっている。
「……父さん。彩葉は神様に選ばれたらしい。」
「え?」
唐突な発言に父さんは戸惑っていた。
「神様に選ばれたんなら、なんで彩葉は自殺なんか……」
「神様は、彩葉を選んだだけで、救わなかったんだよ。」
何もわからない。
ただ怒りしか、溜まらない。
《それがあの小娘の“願い”なのだ。
貴様らの幸福を小娘は、望んだ。》
——なんだ?今の?
声が頭に響いた。耳からではなく、脳に直接。僕らの意思とは関係なく、心が、体が、震える。
「父さん?!」
「自然!」
《だが、択ぶ者は一人で良い……『一神 彩葉』。
その子娘で定まった。
故に、親族である汝らは、皆"死罪"だ。》
祈れば、神が救ってくれる。——そんな言葉を信じている人間がいるらしい。
幸福感を得たり、困難を乗り越えられる。
祈ることには、そんな"効果"があるんだと。
そう、僕は信じていた。
神様は僕らを救うと、信じていた。
でも、違った。
《救いを求めた者を死罪にするとは、実に愉快ではないか!》
閃光と共に、肉を裂く渋い音が響いた。
「……うっ!」
父さんのかすれた声が、部屋中に響いた。
理解した。だからこそ、手がさらに震える。
怖い。息が荒れていく。
「自然……ごめんな。最後まで……弱い父さんで。
神様、せめてこの子だけは……
自然……強く、生きろ——。」
心の中では、「見るな。」と言っているのに、結局は逆らえない。
横を見ると、血溜まりができるほどの出血。
焦点が合わない父の目。
父さんは、そのまま静かに息を引き取った。
「父……さんッ!」
部屋は、一瞬で静まり返った。
血の匂いと、鉄の味だけが、鼻と口に残る。
やはり涙は、出てこない。
ただ、心の穴が大きくなるのを感じただけだった。
《次はお主の番ぞ。》
理不尽だ。何もかも、失った。
大事な家族も、全て神によって奪われた。
信じていたのに、殺された。
この僕自身が、滑稽なのか。
……あ、やっとわかった。
"神"なんていないんだ。
「信じても、届かないのなら必要ない。
お前の名も、概念も、存在も、全部壊してやる。」
あいつの口角が、わずかに上がったように見えた。
《遺言はそれでよいか?》
「次は、必ず殺す。」
拳に怒りを込め、僕は奴を睨みつけた。
《良かろう。》
胸に穴が空いた。
熱く、真っ赤な血が、恐怖と共に吐き出ていく。
心臓が止まる……こんな感覚か。
結局、全てを奪われた。
家族も、妹も、そして、僕自身も。
それなら、次は僕が奪う番だ。
神、お前から。
《気に入った——
其の在り方、滑稽且つ非常に趣がある。
汝の望む結末が、訪れることを願おう。
まあ、我は神だがな。》
今度は僕が、
お前の死に様を笑う番だ。
《それは、愉しみだ。期待しておるぞ。
怪物の子:一神 自然!》
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
次回作もよろしくお願いします。




