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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

正解探しの怖がり鸚哥

作者: 津籠睦月

 私の父は、(きび)しい人だった。

 間違(まちが)ったことを決して(ゆる)さない、四角四面(しかくしめん)な“(おきて)の神”。

 いつでも絶対の“正解”を持っていて、私が“不正解”な言動をすると、すぐ叱責(しっせき)された。

 間違ったことをする私は、人間として正しくないのだと、人格や存在を否定された。

 

 私は父を恐れていた。

 いつも父の顔色を(うかが)って、ビクビク生きてきた。

 

 出すべき答えは、世の中にとって(・・・・・・・)の正解ではない。父にとって(・・・・・)の正解だ。

 世間的には合っていそうな答えでも、父にとって正解とは限らない。

 

 正解を選べないと、父は機嫌(きげん)を悪くする。

 世の流行の、アレは嫌いでコレは好き、物の考え方・感じ方、食事の順番、後片付けのやり方、勉強の優先順位……本来“正解”なんて無いはずなのに、父の中には“正解”があり、それ以外は“間違い”なのだ。

 

 父好みな答えを選ぼうとしても、私は父ではないから、正解が分からない。

 父にとって(・・・・・)の正解は、父にしか分からない。

 心を読む能力も、頭の中を(のぞ)く能力も持たない私が、一体どうすれば、その答えを見つけ出せると言うのだろう。

 それはきっと、初めから無理な難題(なんだい)なのだ。

 

 だけど、父にはそれが分かっていない。

 自分にとって(・・・・・・)の正解は、誰にとって(・・・・・)も正解だと思っている。

 誰もが当たり前に、その答えに辿(たど)()けると思っている。

 娘の私はなおさらのこと、それが分かっていなければ駄目(だめ)だと思っている。

 

 気づけば私は、無口な子どもになっていた。

 正解が選べないなら、(もく)していればいい。

 答えることを放棄(ほうき)しても、(しか)られることに変わりはない。

 だが、答えを間違えて叱られるよりはマシに思えた。

 行動を選んで失敗するのは、何もしないで失敗するより数倍恐ろしい。

 選んだ行動を否定されるのは、何もしないことを()められるより、数倍恐ろしい。

 

 家の中で私が口にするのは“これなら言っても大丈夫”と、確信の持てる言葉だけ。

 それは大概(たいがい)、父から教え込まれた“父にとっての正解”だ。

 (おぼ)えさせられた言葉を、ただ()り返すだけのモノマネ鸚哥(インコ)

 “自分”を持たず、自分自身の言葉を持たず、他人の言葉しか(しゃべ)れない。

 

 口答えせず、ワガママも言わず、ただ“いい子”でおとなしくしている――そんな私に、父は満足していたようだ。

 上手く私を育てられていると、自分のやり方に満足していたようだ。

 だけど、私は気づいていた。

 私は、上手く育ってなどいない。

 人として生きていくために必要なものを、ちゃんと持てていない。

 

 自分の言葉を持たない私は、学校でも言葉に()まってばかりいた。

 先生や友達も、父と同じように“正解”の言葉しか受け付けてくれないと思っていた。

 頭の中を(めぐ)るのは“私の言いたい言葉”ではなく、“相手に喜ばれそうな言葉”ばかり。

 だけど、それさえ自信が無くて、(いく)つも言葉を()み込んだ。

 いつも相手の顔色を(うかが)って、当たり(さわ)りのないことしか話せなかった。

 

 周りが「良い」と言ったモノを「良い」と言い、周りが「嫌い」と言ったモノを一緒に嫌う――流されてばかり、周りを真似(まね)てばかりの毎日。

 友達と一緒にいても、ついうっかり言葉を“間違えて”しまわないかと、そればかりを気にしていた。

 一度でも間違えれば“嫌われて終わり”だと、いつも(がけ)っぷちの気持ちでいた。

 嫌われることに(おび)えてばかりで、友情を純粋に楽しむことなどできなかった。

 

 数学や科学の問題なら、絶対的な“正解”が()る。

 だけど、人類(ヒト)の心にそんなものは無い。

 正解は人の数だけ違っていて、誰にでも通じる万能の答えなんて無い。

 

 新しい人に出会うたびに、その正解を当てずっぽうに探し求めた。

 クイズのようにヒントや手がかりがあるわけではないから、自分で(さぐ)りを入れて、(ため)し試し言葉を使う。

 相手の反応を見て、次々言葉を切り替える。

 (はた)から見たら、私の言動はブレブレで、(しん)が無くて、コロコロ変わる“いい加減(かげん)”なモノに思えただろう。

 

 だけど、怖がりな私は、そんな風にしか生きられなかった。

 友人や家族でさえ、油断すれば“不正解”の地雷を()()く。

 安心できる会話なんて、この世に一つも存在しない。

 生きるって、なんて精神がすり()っていくものなんだろう――あの(ころ)は、ただそんな風に思っていた。

 

 あの頃の私は、知らなかった。

 “間違えた”言葉を言っても、不快にも不機嫌(ふきげん)にもならず、ただ受け流してくれる人もいるということを……。

 自分の正解とは真逆の言葉でも、()っぱねるでもなく、否定するでもなく、ただふんわりと受け止めてくれる人もいるのだということを……。

 人間には、寛容(かんよう)な人と不寛容な人がいて、自分と違う“他人の正解”を許せる人と許せない人がいる。

 私の父は不寛容(ふかんよう)で、“自分とは違う答え”を許せない人だった。

 ただ、それだけのことだった。

 ただそれだけのことなのに、それが世界の全てなのだと、思い込んでいた。

 

 学校という場所は、出会いの連続だ。

 学年が変わるたびに、新しい出会いがある。

 以前は、それが苦しくて、(わずら)わしくて(たま)らなかった。

 新しい人と出会うたび、また新たな“正解探し”が始まると思っていた。

 だけど、その出会いが人生に思わぬ転機をもたらすこともあるのだと、出会って初めて知る。

 

 人を知ると、世界が広がる。

 “それまで出会ったことのなかった人”に出会うと、自分の世界がそれまでどんなに(せま)かったのか、思い知らされる。

 あの頃の私は、父の作った狭い鳥籠(とりかご)の中を、世界の全てと信じていた。

 高く飛んでも、ぶつかって怪我(けが)をするだけだと、身を(ちぢ)めて生きていた。

 自分で自分の世界を(せば)めて、自分で自分の行動を(しば)っていた。

 

 本当は、心のどこかで気づいていたのかも知れない。

 この世に絶対の“正解”なんて無くて、人は(みな)、自分にとって都合(つごう)の良い“正解”を押し付け合って生きているだけなのだと。

 私はずっと“私にとっての正解”を否定され“父の正解”を押し付けられて生きてきた。

 父に逆らってまで自分の正解を押し通す気概(きがい)が、私には無かった。

 

 気づけば、家の中でも外でも、どこでも“他人の正解”に振り回されてばかり。

 自分の正解を押し殺して、他人に合わせるのが(くせ)になっていた。

 それはそれで、争いを生まないラクな生き方だったけれど……結局は“自分を殺して我慢(がまん)している”ということだ。

 そうまでして他人に合わせても、()めてもらえるわけでも、愛してもらえるわけでもないのに……。

 

 人真似の言葉ばかりで自分の言葉を出せない私は、誰にも“私”を理解(わか)ってもらえない。

 他人に合わせてばかりの取り(つくろ)った私は、本当の私なんかじゃない。

 

 言えない言葉ばかりで言葉の足りない私は、他人との関係を深められない。

 その場限り、学年が変わって(はな)れればそれまでの、浅い関係しか結べない。

 

 自分でも気づいている。

 私は、人として生きていくために必要なものを、ちゃんと学べずに来てしまった。

 これはきっと、勉強ができることより、スポーツや芸術の才を持つことより、ずっとずっと大切で、無くては困るものなのに……。

 

 たぶん、父は気づいていない。私の人生から(うば)ってしまったものに。

 父の言うことに素直に従う――自分ならぬ他人の言葉にひたすら従順な“いい子”。

 それが、自分の意思を持たない――他人に飼われないと生きていけない哀れな(かご)の鳥だと、気づいていない。

 

 何の躊躇(ちゅうちょ)(おそ)れも無く、平気で自分の意思を(つらぬ)ける他人が、(うらや)ましい。

 私も生まれる家が違えば、ああなれていただろうか。

 育つ環境が違っていたなら、あんな風に“普通”になれていただろうか。

 

 きっと私は、もっと“自分の正解”を追い求めても良かった。

 もっと我を通すくらいで丁度(ちょうど)良かった。

 今の私には、もう“自分の正解”が分からない。

 随分(ずいぶん)と長い間、自分の意思を殺して生きてきた。

 だから、もう自分でも、自分の意思が見つけられない。

 自分の意思なのか、それともまた無意識のうちに、他人に合わせてしまっているだけなのか……それすらも、分からない。

 

 学校で私は“不正解”を許してくれる人に出会えた。

 友情が(こわ)れることに(おび)えて言葉を()み込まなくても良い人たちに出会えた。

 だけど、それでもまだ、すぐには上手く(しゃべ)れない。

 身に()みついた習性は、呪いのように私を(しば)り、舌を、(のど)を凍りつかせる。

 

 それでも手探(てさぐ)りで、自分の言葉を、私の意思を探す。

 リハビリのように少しずつ、私は私の機能を取り戻していく。

 気づけば、また他人に合わせてしまい、反省することもある。

 口にしたものの、何だか“自分の言葉”じゃない気がして、微妙(びみょう)な気持ちになることもある。

 それに、今はまだ、安心のできる一部の友達の前でしか、自分の言葉を出せない。

 それでも、前に進めていると感じている。

 

 その歩みは亀のように(おそ)いかも知れない。

 望みの自分になれるまで、もしかしたら何十年もかかってしまうのかも知れない。

 それでも、できることを一歩ずつやっていくしかない。

 このままずっと、誰かの正解に流され続けて、自分の人生を生きられないのは、嫌だから。

 

 父はきっと、この先も気づかない。

 自分の正解を他人に押し付けて、その人の正解を奪うことの残酷さに。

 そしてこの世界には、父以外にも、そんな人間が山ほどいる。

 自分の我を通して、他人を従わせられたら“勝ち”の、生存競争――そんな理不尽(りふじん)な弱肉強食に、支配されたくはない。

 

 だから、私は私の正解を探す。

 誰に何を言われても、自分を保っていられるように、私の中だけの揺るぎない“正解”を探す。

 他人の言葉しか(しゃべ)れない、他人に逆らえない、怖がりな鸚哥(インコ)のままじゃなく……私が“私”になれるように。

Copyright(C) 2023 Mutsuki Tsugomori.All Right Reserved.

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