決断のとき
現世を救うためには、自分の存在を犠牲にしなくてはいけないという。
ぐるぐると頭を駆け巡るのは、情けないことに自分の今後についてだった。
結局は自分が一番かわいいのだと、そんな自分にガッカリする。
自分はどうなってもいいから、なんて思えるほど私は強くない。
文章を打ち込んで、不要な部分を削って、下書き保存する。
大学の課題レポートを作成するときに何度もやったその行為を思い出す。
私の存在も「不要な部分」として切り取られ、そして現世は何事もなかったかのように時を刻むのだろう。
麗も明日香も、翔月たちも、みんな私のことを忘れてしまうのだろう。
思い出の詰まったあの家だって、どうなるか分からない。
さて。私は視線を空から足元の花に移した。
ちょうど目に入ってきたピンクと白のゼラニウムをそっと撫でる。
(それで私は、どうしたいんだろう)
──君は現世を元に戻したいと思うかい。
先ほどの神様の問いかけが記憶の音として頭にリフレインする。
私は自分の存在をないがしろにしてまで現世を元に戻したいのだろうか。
「どう、しよう……」
ようやく出した自分の声は、恥ずかしいほど震えていた。
他に方法はないのか。
思わず口にしそうになったその言葉は、先ほど既に葉月さんが神様に投げかけている。
しかし、神様の「君の代わりに他をあてがうことも可能」という返答は、あくまで葉月さんに対する打開策だ。
私は唯一の現世の生存者なのだから、当然代わりはいない。
「神様が代わりの案を出さなかったってことは、この方法以外ないってことなんですよね」
分かり切ったことを尋ねた自覚はあった。
問われた葉月さんが心中を察した様子で力なく頷く。
じゃあ、と私は小さく呟いた。
「選択肢はやるかやらないかの2択……というより、選択肢なんて最初から……」
選択肢など最初からあってないようなものだ。
現世を見捨てるなんて、一人のちっぽけな人間に決断できるわけがない。
「結奈さん……」
葉月さんが何かを言おうとして言葉を詰まらせた。
ぐっと膝に置いた拳を握りしめている。
そんな彼を気にする余裕などなく、私はただ茫然とする。
自分という存在が世界から消えるだなんて想像もつかない未来だ。
そのせいで、心の内では既に答えが出て居るのに決断を下せないでいる。
どうしても口に出す寸前で唇が震えてしまう。
「私、ごめんなさい、なんでこんなに……死ぬわけでもないのに、答えられない……」
言っているうちに涙が出てきて、どうしていいか分からず顔を覆った。
自分の嗚咽に混じって衣の擦れる音が耳に入る。
そうしてすぐに存外しっかりとした腕が私を力強く抱きしめた。
「結奈さんのその葛藤はあって当然なものです。謝る必要などどこにもありません」
「でも、言わなきゃ」
寄り添ってくれる葉月さんの言葉に首を振って、私は彼の腕の中で小さく縮こまった。
温もりと安心する葉月さんの匂いに包まれながら、そっと体をゆだねてみる。
葉月さんはそれ以上なにも言わなかった。
ゆったりと横たわる沈黙に緊張や焦りの色はない。
言葉を探している風でも私の返答を待っている風でもなく、ただ葉月さんは黙っていた。
答えなくてもいい、なんて甘いことは言わず、早く答えろと厳しい言葉もかけてこない。
(……答えは出てる。現世は絶対に救わなきゃいけない。この先のことなんて想像つかないし、葉月さんとずっと一緒に居られる保証はない。それでも、葉月さんがひとりじゃないって思わせてくれるから、今この瞬間、私は大丈夫だって思えるんだ)
私は大きく深呼吸をしてから、もぞもぞと彼の腕の中で身をよじった。
切なそうに虚空を眺めていた葉月さんが、見上げる私の視線に気づいて目を合わせる。
頬が強張っているのを自覚しつつ、私は無理やり口角あげた。
「自分が媒体だって言われてから、ずっと未来の自分について考えていました。それで、気づいたんです。現世を見捨ててしまったら、私は人類を見殺しにした犯罪者になってしまうって。法では裁かれなくても、私が自分を許せないと思うんです」
葉月さんは「犯罪者」と口にした瞬間、何か言おうと口を開いた。
おそらく否定の言葉を言おうとしたのだろう。
けれど結局、言葉を飲み込んで静かに相槌を打った。
「そんな気持ちのまま生きていくくらいなら、私は、自分の存在がなかったことにされてしまったとしても、現世を元の状態に戻します。それが私の答えです」
言い切って、葉月さんの腕の中から花畑を見やった。
あの苦しいほど眩い存在が現れることを予想して身構える。
けれど神様はまだ姿を現さない。
「私は」
一向に現れない神様に焦っていると、頭上からポツリと言葉が降ってきた。
「私はこの旅が始まってから、ずっと後悔と得心を繰り返していました。一番守りたい存在のはずなのに危険な旅に同行させてしまった後悔と、そんなあなたに何度も救われて、結奈さんが居なかったらここまで来られなかったという得心を」
私は黙って葉月さんの言葉を待った。
瞬きだけで相槌を打つ。
葉月さんは辛そうな表情をいっそう歪め、僅かな嘲笑を滲ませた。
「結奈さんが何と答えるかなんて、最初から分かっていました。芯が強く、それでいてふわりと受け入れる優しさをもつ、そんな綿飴のようなあなたを、守れる自分でありたかった」
泣きそうな顔をしたのは一瞬で、すぐに葉月さんは表情を改めた。
抱きしめられていた腕がそっと離れていく。
「それなのに結局、私は結奈さんの存在を溶かす要因になってしまった。そんな自分が言えた口ではありませんが」
そこで言葉を切って、葉月さんは傍に植わっていた紫の花に指をかけた。
グッと力が入り、根っこから花が抜かれる。
同じ方向に向かって凛と咲くそれは、サックスを反対にしたような不思議な形をしていた。
葉月さんは優しく両手で根っこごと持ち上げると、私の正面に座り居住まいを正した。
「結奈さん、あなたの人生を私にください」
まっすぐな金の瞳が私の目を見つめている。
力の籠った頼もしい声が鼓膜を揺らし、鼓動が急速に高まっていく。
早鐘を打つ心臓とは反対に、時が止まったような感覚に陥った。
驚きが困惑に変わり、そしてすぐに、胸が張り裂けんばかりの喜びに変わった。
「ください」なんて一見相手を優先させる彼らしくない言葉だけれど、差し出された紫の花の意味を知っている私は、葉月さんらしいなと思った。
その花の名は立浪草。
花言葉は「私の命を捧げる」。
あくまで対等に。隣を歩く関係で。
そんな想いが強く伝わってきて、私は迷わず花を受け取った。
「もちろんです、葉月さん」
顔が勝手に綻んで、自然と笑顔が浮かんでくる。
騒がしい胸に立浪草を近づけ、私は葉月さんに笑いかけた。
「ずっとお傍にいます。10年後も、20年後も。この命が尽きるまで。この花が枯れるまで。ずっと」
葉月さんは嬉しそうに頷き、「ありがとう」と言った。
私の手の中で、立浪草が誇らしげに咲いている。
もう自分の存在が消えることへの恐怖は無くなっていた。




