【幕間】 イトスギのローブ
「良かったのか? お前の大切なローブだろうに」
葉月と結奈が屋敷を去ったあと、書斎に戻る途中でレオドールが言った。
「葉月殿にはお世話になっていますから」
「世話になっているのは私だろう? お前と葉月はそれほど接点がなかったはずだが。強いて言うなら、花瓶を割った際に脅されたくらいか」
クスクスと笑う王に、アーロンは苦笑した。
王は何でもお見通しだ。
それは従者の隠し事から始まり、ひとの奥深くに潜む素質や本心までも見透かす。
アーロンが初めてレオドールと出会ったときもそうだった。
◆◇◇
アーロン・ランドルフは元野妖であった。
古くから続く術使いの名家、ランドルフ家の当主が金に目がくらんで悪事を働き、野妖になってしまったのだ。
その当主というのがアーロンの実父であった。
しかし、まだ幼いアーロンが跡を継げるはずもなく、ランドルフ家は間を置かずに没落。
それ以来、屋敷や財産を没収されたアーロンとその母は、野宿をしたり空き家で雨風を凌いだりと、苦しい生活が続いた。
子供にばかり食べ物をやっていたせいだろう。
わずか数週間のうちに母親が栄養失調で亡くなり、いよいよアーロンは一人になってしまった。
毎日が生きるか死ぬかの日々。
物乞いをしたこともあったし、盗みを働いたこともあった。
そのたびにアーロンは罪悪感に蝕まれ、そんな生活を数年間続けてきたところで、とうとう彼は生きることを諦めた。
ある日、死に場所を求めて森の中をうろついていたアーロンは、畑のようなところにたどり着いた。
空腹のせいで胃がひどく痛み、四肢に上手く力が入らない。
そんな極限の状態で、目の前にはニンジンやキャベツやトマトが大量に植わっていた。
(たべもの……)
生を諦めていたアーロンに、一筋の希望が宿る。
市場で売っているような値段のついたものを盗むよりは、罪悪感を抱かないと思ったのだ。
虫だって無断でこれらを食している。ならば自分も許されるのでは。
アーロンは朦朧とした意識の中でそう折り合いをつけ、ぐっと手を伸ばした。
太陽に照らされた、赤くて艶やかなトマトに指がかかる。
それをもぎ取ろうとして、しかしアーロンの動きは止まった。
(それでいいのか? この野菜は誰かが汗水たらして育てたものなんだろう。野妖の僕なんかが食べていいものじゃない)
もう罪の意識に苛まれる日々は懲り懲りだ。
アーロンはわずかに残った力で近くの木に寄りかかると、眠るように気を失った。
「──い、大丈夫か! しっかり──」
耳元で切羽詰まったような声が聞こえる。
アーロンはその声を頼りに、うっすらと目を開けた。
いつの間にか横になっていたようで、知らない男に抱き起こされている。
「誰……?」
重ったるい口を動かして、掠れた声で尋ねる。
しかし、男はその問いに答えることなく、アーロンの口に水筒の淵をあてがい、そっと傾けた。
もう随分と口にしていなかった新鮮な水に、アーロンは感動した。
泥臭さも鼻を突くような刺激臭もしない、とても美味しい水だ。
水分を取ったことで少しだけ意識が覚醒したアーロンに、男は安堵のため息を吐いた。
「私の名はレオドール・グレイシス。視察の帰りに倒れているそなたを見つけたのだ。薬師によると栄養失調と過労らしいが……そのなりからして野妖なのだろう? なぜ畑のものを食べなかった」
レオドールと名乗った男は、野妖だと軽蔑している様子などなく、心底不思議そうに問うた。
アーロンはぼんやりと陽の傾いた空を見上げ、ポツポツと胸の内を語った。
「ほう、そなたの家は代々術使いだったのか。なるほど。……よし、ならば私の専属術師になれ」
名案だと笑顔を浮かべるレオドールに、護衛騎士の面々がざわついた。
「レオドール様、本気ですか!? 一国の王が野妖を召し抱えるなど、民になんと思われるか」
レオドールは周囲を宥めて言う。
「一国の王だからこそ、手本とならねばならない。今、この世には、彼のように何も悪いことをしていない者が、家族や先祖の罪のせいで苦しんでいる。そんな彼らに居場所を作ってやることも、立派な王の務めであろう」
「しかし、この者が嘘をついている可能性も……」
従者の言葉に、レオドールはふっと笑みを浮かべた。
「嘘をついてひとを騙そうとする者が、畑の前で倒れているものか。この者は野妖として生きるには優しすぎる。だから専属術師として育ててやりたい。受け入れろ」
力強い口調で明言された言葉を、アーロンは一生忘れないだろう。
胸が熱くなり、アーロンはハラハラと涙を流した。
ひととして認識してもらえたことによる嬉しさと、もう罪を重ねる必要が無いという安堵感に、緊張の糸がプツンと切れたのだ。
しかし、それで上手くいくほど人生は甘くなかった。
燃えるような赤い髪と深いエメラルドの瞳はたいそう記憶されやすく、屋敷を歩くたびに黄泉の貴族から「例の野妖だ」と後ろ指をさされる。
コソコソと陰口をたたかれるくらいならば良いが、酷いときには暴力をふるわれた。
野妖でありながら王の寵愛を受けるアーロンを妬んだのだ。
公務で忙しいレオドールがその実情を知ったのは、アーロンが部屋にこもって数日すぎてからだった。
「少し散歩にいかないか」
見事な満月の晩、そう恩人に誘われて、アーロンは一も二もなく頷いた。
屋敷の庭を歩くのかと思いきや、馬車に乗せられる。
そのまま連れてこられたのは、屋敷から数キロ離れた、レーテーと呼ばれる泉だった。
白い糸杉の木が一本、こちらを天から見下ろすような高さまで真っ直ぐ伸びており、その根元では綺麗な水が湧き出ている。
レオドールは迷いなくその木に近寄り、なっていた実を捥いだ。
「アーロン。そなたはレーテーという名の由来を知っているかな?」
アーロンは幼い頃に母から教えてもらった話を思い出して頷いた。
「レーテーの意は『忘却』。この泉は『忘却の水』であるレーテー川の水源と存じます」
アーロンの返答に、レオドールは満足気な笑みを浮かべた。
「その通り。そして、レーテーの水を飲むと人は全てを忘れてしまうという」
話が見えなくて、アーロンは黙って耳を傾ける。
レオドールは、そんな彼に向けて糸杉の実を放った。
優しい月の光に照らされた丸い実が、放物線を描いてこちらに向かってくる。
まるで月が落とした涙のようだと、アーロンは手を伸ばしながら思った。
「これは忘却の水で育った実だ。この実を使って服を作ってみなさい」
「……え?」
実を受け取ったアーロンは、驚いて顔を上げる。
「服、ですか? どうやって……というか、なぜ……」
戸惑いを隠せないアーロンに、レオドールはニヤリと不敵な笑みをつくった。
「お前の不安を忘れさせてくれるやもしれんぞ」
混乱をしつつも、アーロンは数日部屋にこもり、王の命に従って黒いローブを拵えた。
そしてそのローブを被って屋敷を歩いてみることにした。
自室から庭に出て、ぐるりと屋敷内を一周。
その間に数人の貴族とすれ違ったが、驚いたことに陰口を言うひとも暴力をふるってくるひともいなかった。
◇◇◆
そのときはローブの力だと本気で信じた。
けれど、今となって考えてみれば、アーロンがローブ作りに熱中している間にレオドールが貴族たちに働きかけたという説の方が有力な気がする。
それから十数年の月日が経ち、現在のアーロンは国一番の術使いになった。
もう誰も、アーロンを蔑まない。
暴力や暴言を浴びせたりしない。
「私がこうして生きているのは、レオドール様のおかげです。そのレオドール様が助けたいと思っている方ならば、私はいくらでも力を貸しましょう」
従順な専属術師に、レオドールは「大袈裟だ」と軽やかに笑う。
そんな王に、アーロンは優しく笑い返した。
「私だけではありません。レナフィーや卯槌など、レオドール様の下で働く元野妖たち全員が、あなた様に心から感謝しているのです」
アーロンから始まり、レオドールは何十もの野妖に居場所を与えた。
誰もが一生をかけてでもその恩を返したいと願っている。
そして、恩というのは良き方向に伝染していくものである。
「そういえば、卯槌のやつはまだ戻らないのか」
ふとレオドールが尋ねる。
「ええ、まだやることがあると言っておりました。しかしレオドール様が戻したいと望むのであれば、すぐさまお連れしましょう」
懐から連絡符を取り出そうとするアーロンに、レオドールは少し考えてから頭を振った。
「いや、彼の思う通りにしてやろう」
「ですが、同じ身分だった私が申すことでは無いのでしょうけれど、野妖はやはり信用できません。育った環境ゆえにか、自己本位な者が多いのです。もう戻らないかもしれませんよ」
アーロンの不安げな声に、レオドールはキッパリとこう言った。
「それはないよ。なぜなら、彼には恩を返したいと思うひとがいるからな。今度は自分が命を助けるのだと張り切っていた。そのような者が逃げ出すとは思えない。好きにさせてやろう」
その口調は、アーロンを引き上げてくれたものと全く一緒のものだった。
ハッとして、アーロンは連絡符を懐に戻す。
そして、廊下の窓に目を向けた。
「お二人は無事に境を越えられたでしょうか」
世界を救うために銀世界へ飛び込んでいった、狐耳の青年と人間の娘の後ろ姿を思い出す。
レオドールもアーロンの視線をたどって、玉屑の先を見つめた。
「大丈夫さ。なにしろ、イトスギのローブがあるからな」




